【第861回】 すなおな心に従う

合気道を長年修業して、年も傘寿を超えてきた。年は誰でも取るし、合気道を長年やったからといって特別な事ではない。他人はそう思うはずである。
しかし、本人の思いはちょっと違う。この長年の修行と年に意味を持ち、感謝しているのである。長年の修行によってようやく合気道というものが分かってきたし、また、年を取ったお陰で合気道だけでなく、己を知るようになってきたと感謝しているのである。

年を取って何が変わったかというと、一番変わったと思うのは己の心だと思う。若い頃の心とは大いに違うし、言ってみれば、正反対である。若い頃の自分は反抗的で疑い深く、負けず嫌いであったが、今やその正反対になっていると思う。
この心で若い頃は合気道の稽古をしてきたわけだが、今思えば、心が真の合気道を教えてくれることはなかった。

今は、心に従って、合気道の修業をし、生活をしている。心を信じているのである。合気道の修業のお蔭、所謂、合気道の禊により心がすなおになったということだろう。すなおとは、宇宙の意志に逆らわない、理に合った自然の心ということと思っている。
合気道の技はこのすなおな心でないと上手くつかえない故、心をすなおにすべく修業してきたお蔭と考えている。

すなおな心に従って技をつかえば、いい技が生まれてくることがわかった。心がこれをやるように、こうやるようにと言ってくるのである。体もいろいろ言ってくれるが、これは体の心であると思う。技は心(心と体の心)に従ってつかえばいいことになる(心の心とは宇宙の意志である魂と考える)。故に、心に少しでも多く大事な事を言ってもらい、教えて貰えばいい。そのためには、己の心はすなおでなければそれを受診できないし、また、その心にすなおに従わなければならない。

この心をすなおにし、そのすなおな心に従うようにするためには、合気道の禊ぎの稽古だけでなく、日常生活でもすなおに心に従うことである。例えば、自分のやりたい事、やりたいという心に従ってやることである。笑いたい時は笑い、泣きたい時は泣く。食べたい物があればそれを食べる。行きたい所があれば行く。読みたい本があれば即購入して読む等などである。理屈をつけてやりたい事をやらないということが無いように、すなおに心に従う習慣をつければいい。これがすなおな心であり、すなおな心に従うということである。勿論、やりたくなければ、その心に従ってやらなければいい。

すなおな心に従うと、心は喜んでくれるようで、心と仲よくなれ、心がいろいろ大事な事を言ってくれるようになる。合気道の修業を助けてくれ、そして日常生活をより楽しくしてくれるようである。

すなおな心にし、そのすなおな心に従っていきたいと思う。これが真の自由であろう。