【第860回】 体の表をつかう

少しでもいい技がつかえるように、技を練っているが容易ではない。が、最近、お蔭様で合気の技がつかえるようになったと思えるようになってきた。つまり、これが合気道の技というものであろうと自覚できるようになったということである。それまでは合気道の技を繰り返し練っていたつもりであるが、その技が合気道の技であると実感出来なかったのである。言うなれば、只、手足を動かしているだけで、合気道でなくともやっているし、日常の動きともさほどかわらない動きと感じていた。

これこそが合気道の技であると実感できたのは、これまでいつもやっていた片手取り呼吸法と正面打ち一教がようやく合気の技になったことである。何故、技が合気の技にかわることができるようになったかというと、これまでの稽古の積み重ねと、新たな大事なモノが加わったからである。
これまでの稽古で得てきたモノは、肉体の剛柔流、手足の陰陽、手足の節々の鍛練、水火の息づかい等などであるだろう。
次に、新たな大事なモノである。このお陰で片手取り呼吸法と正面打ち一教は勿論、他の技も変えたモノは何かというと、“体の表をつかう“ことである。

体の表とは体のどこかである。表があれば裏もあることになる。体の表とは背中・腰側であり、裏は胸・腹側である。
これまでは技を体の裏で力を出し、技を掛けていたわけである。これを体の表側から力が出るように手足をつかうのである。
体の表は陽であり、体の裏が陰になるわけだから、陽の体の表をつかうのは当然なのだが、陰の裏をつかっていたということである。初心者の技づかいをみていると、大体は陰の裏で手をつかい、技をつかっている。それに対して、大先生や有川定輝先生などの名人達人たちは体の表をつかっている事がわかる。

体の表をつかうようになると、体の裏をつかう弊害がわかってくる。それは体の裏からの力は肉体的な魄の力になることである。魄の力は受けの相手に反感を与え、相手に反発されることになるから、技は効きづらくなる。
体の表をつかわなければならない事は自覚できるので間違いないと思っていたが、念のためにこの件に関して大先生の教えがないか調べてみると、次のような教えがある事がわかった。
「魄の世界を魂の世界にふりかえるのである。これが合気道のつとめである。魄が下になり、魂が上、表になる。それで合気道がこの世に立派な花を咲かせ、魂の実を結ぶのである。」(合気神髄P.13)
ここでの魄は体の裏であり、魂が体の表である。魄が下になり、魂が上、表になればいい技(立派な花が咲く)が生まれるということである。

体の表をつかい、力を出し、手をつかわなければならないが、体の裏にある力をどうすれば体の表に移すことができるかが問題になる。陰から陽に移すのである。
それは息づかいと体づかいでやらなければならないと思う。息づかいは“うのみ働き、うの言霊”であり、体づかいは仙骨をつかうことである。
この“うのみ働き”については次回の研究とする。

この息づかい、体づかいで裏にある力(気)を表に移し、表にある力で技をつかえばいい。この力は魄の力とは異質の摩訶不思議な力であり、この力によって技が変わるようである。