【第860回】 合気道は神の働きであり、禊である

前回の「第859回 魂への第一歩」で、大先生の教え「私は何時如何なる時、どんなことをしかけられてきても平気です。生き死にの執着が全くない。このまま神様におまかせなのです。剣を持って立つ時ばかりでなく、常に生きる死ぬるの執着を断ち、神様におまかせの心でなければならない。」(武産合気 P.36)で神様について書いた。また、「神様におまかせ」から、神様は魂であり、そして無意識で働いてくれる何ものかで、その働きを神様とした。目に見えないが超人的、摩訶不思議な働きなので神に相応しいというわけである。

合気道で技を練って精進しているわけだが、これでどのような技が理想なのかが分かったわけである。それは「神様におまかせ」の技であり、神様の技、神業ということになる。人間がつくったり、加工したり、いじくりまわす技ではなく、宇宙の営み・法則に則ったモノ、つまり業である。これを宇宙(霊)の意志・心(魂)と考える。よってこの神業、霊魂には四魂(幸魂、和魂、荒魂、奇魂)と三元(気・流、柔、剛)と八力(動、静、解、疑、強、弱、合、分 )の働きがあることになる。

「神様におまかせ」から神業が出るようにしなければならないが、そう簡単ではない。神様に働いてもらうための準備と環境を整えなければならないからである。何もしないで、神様よろしくお願いしますといっても、神様は困ってしまうだろう。
神様が十分に働けるよう、体を鍛え、必要な筋肉をつけ、骨・関節をしっかりしなければならない。ふにゃふにゃの筋肉や骨、手や足では神様は働けない。また、体にカスが溜まっていては、カスが溜まっている部位は動かないか動きづらいし、血液やその他の液体・流体の流れも滞ってしまうので、神様は働けないことになる。
また、神様が技を生むように働くためには、その土台になる人間の動きの準備も法則に則っていなければならない。つまり、体を陰陽十字につかう、息と気を布斗麻邇御霊の働きで技と体をつかう、また、アオウエイなどの言霊で技と体をつかう等である。

この二つの事から、合気道とは如何なるものなのかが一段とはっきりしてくる。つまり、合気道とは、①神の道であるということである。これを大先生は、「合気道とは、人の完成の道であり、神の道であり、宇宙の道であらねばなりません。(武産合気 P.39)」と教えておられる。
神の道とは、神が働いてくれるための道、神と共に働くための道、神と一体化する道という意味になるのだろう。これは合気道の修業目標は宇宙との一体化であるということと同じことだろう。

そして、合気道とは②禊ぎであるということである。大先生は頻繁に、合気道は禊ぎであると言われていた。合気道の技も禊ぎであるし、呼吸法、船漕ぎ運動、転換法、柔軟体操なども禊ぎなのである。この禊は大事であるから毎日やらなければならないと、大先生は「禊ぎは、はじめに述べたように立て直しの神技の始めに行ずるのであるが、禊をして精神の立て直しをすることは特に合気道を学んでいる各自にお願いしたい。日々、必ず修業してほしいと思う。(合気神髄P.152)」と言われている。
ここにもあるように、禊は神業のために必要だからということである。つまり、お任せした神様に十分に働いてもらうために、禊ぎでその環境を整えるということであると考える。神様の働きのために禊ぎをするということである。合気の技を練る事が禊ぎになる故に、稽古の相対稽古で技を掛け合って技を練っているわけだが、これが禊ぎになり、体と心が十分に禊がれると神様が働いて下さり、神業を生んで下さるということだと考えている。