【第859回】 遠心力をつかう

最近は技が少しずつわかってきたので、相手に思う存分、力一杯掴ませたり、打たせて技を練っている。手と腰腹をしっかり結び、腹は十字に、左右の足を陰陽に、息は水火(吐く、引く)でつかって技を掛けると大体は上手く掛かるようになるものである。
しかし、受けの相手が力一杯に掴んできたり、打ってくると捌くのは容易ではない。特に若い相手は力はあるし、体力・馬力がある。こちらが力でやれば力負けしてしまう。
勿論、相手に力一杯掴ませないで技を掛ける方法はある。動きの中で掴ませればいい。動いている手を掴んでも相手は力が十分出せないものである。もう一つは、相手に対して、そんなに強く持たずに、力を抜いて持てと言えばいい。だが、敢えてこれはやらない。何故ならば、己の稽古にならないからである。逆に、こちらが動けないよう、技をつかえないように力一杯攻撃してくる相手に感謝している。はじめは出来ないかもしれないが、何処が悪いのか、そこでどうすれば出来るようになるのか等を考えさせてくれ、研究させてくれるからである。

道場では自主稽古で、毎回、呼吸法と正面打ち一教をやるようにしている。受けを取ってくれる相手もこちらの技づかいに慣れてくると、力の入れどころもわかってくるし、力もついてくる。故に、以前と同じような技づかい、体づかいでは力負けしてしまうことになる。追う方と追われる方となるわけだが、追う方は追われる方の二倍、三倍の速度で進歩してくるので、追われる側は二倍、三倍の努力をしなければならなくなる。量と質の努力が必要である。量とは力(肉体的な力)であり、質とは宇宙の営み・法則である。力をつけ、法則を身につけなければならないということである。

さて、正面打ち一教を力一杯やっていて大分苦労したが、ある事によって、力負けせずに正面打ち一教を捌くことができるようになってきたのである。
ある事とは“遠心力”である。遠心力で相手を外にとばしてしまうことである。これまでは、相手を自分に吸収してしまうように、主に求心力で技をつかってきたわけだが、これだけでは不十分であったということである。
そこでこの遠心力に関して合気道にはどのような教えがあるかを調べてみると『合気道技法』に次のような教えを見つけた。
「合気道の技を仔細に検討してみると、すべてが円転の理と、入身一足の理から成り立っている。円転の理とは、自己の右足または左足、或いは体全体が中心となって、相手にその動きを及ぼすことである。あらゆるものを吸収する求心力と遠くへとばす遠心力が相互に作用して、合気道の動きの偉大さを表現するものとなる。(また動きは線であるが、螺旋状に円転する線である。P.39)合気道のすべての技が、多かれ少なかれこの円転の理を用いているのである。」(「合気道技法」P.31-33)

つまり、合気道の技は求心力と遠心力が相互に作用するものであり、これを「円転の理」というのである。技は求心力と遠心力に作用するということを、技をつかうと感得できる。技を掛けた相手にはこちらとの接点(手、肩等)で、こちらに引き込まれる力(求心力)と外へとばされる(遠心力)力が働き、くっついてしまったり、引き込まれたり、とばされたりするようになるのである。(図左)

この求心力と遠心力の相互作用を宇宙の営み・法則でも見る事ができる(図右)。求心力と引力は厳密に云えば異なるが、合気道で技をつかう際は同じものとして感じればいいだろう。
そうすると技づかいが更に進化する。これまでは己(地球)が相手(月)に技を掛けていたわけだが、相手の接点を攻めてしまっていた。しかし、攻めるのは相手の一部の手ではなく、相手全体、つまり相手の中心でなければならない。そのためには、求心力と遠心力(円転の理)をつかわなければならないのである。

求心力だけでは不十分であり、遠心力をつかい、その相互作用で技をつかわなければならないのである。これで正面打ち一教、呼吸法、そして他のすべての技をつかわなければならいと肝に銘じた。上記の教えにも「合気道のすべての技が、多かれ少なかれこの円転の理(求心力と遠心力が相互に作用)を用いているのである。」とあるからである。