【第857回】 一所懸命の姿に涙

最近ますます涙を流すようになった。年のせいもあるだろうが、それだけではないように思う。年が増えればそれに従って涙を流すとすれば、超高齢者などは泣きっぱなしのはずだが、そうではない。人によるようだ。涙もろい人もいれば、絶対に泣かないという人もいる。
私の場合も泣くのは、物事が上手くいかず失敗したり、勝負に負けたとか、欲しいモノが手に入らないからなどではなく、物事に感動したり感激したためである。つまり、感動する機会が増えたことにより、涙を流す機会が多くなったという事である。

涙を流すということは、己が素直になったという事だと思う。いい事である。物事を素直に見る事ができ、そこにある素晴らしいもの、人間が持つ宝を見つけることができるということである。
真に素晴らしいモノ、人の宝を見つけて涙するようになると、涙がますます頻繁に流れるようになる。つまり感動・感激の場が増えるのである。人にはこのような事が可能であるという事を示してくれるのである。
これまでは、まず、映画などで感動・感激し涙を流した。人に見られると恥ずかしく、気まずいのでその涙を見られないようにこっそり拭いたものだ。その後はテレビを見たり、新聞記事や本を読んだりしても感動・感激し、時として涙することもあった。ここまでは普通の人間だと思う。

80歳過ぎてくると涙もろくなった。いいモノを見たり聞いたりすると泣けてくるのである。美しい音色の音楽(クラシック、歌謡曲、シャンソン、オペラ、童謡など関係ない)を聴き、素晴らしい絵画や芸能を観、また、職人の仕事でも涙する事がある。

涙を流すというより、涙を流させるものは何かを考えてみると、それは一生懸命にやっている事、やったモノに対しての感動・感激の現れであるように思う。
それを実感する例は、幼児や子供たちや若者たちが一所懸命に頑張り、生きている姿である。心の底から、損得なしで、純粋に生きることを楽しもうとする姿、挑戦する姿、探究する姿である。彼らの顔には曇りが無く、輝いており、これが人間の本来の姿であることを教えてくれる。感動の涙が出るわけである。

自分の稽古での姿を考えてみると、他人に涙させることには程遠い。この子たちを見習わなければならない。もっと一所懸命に稽古をしなければならないということである。一所懸命に稽古するとは、自分との戦いに徹するということである。相手とも戦いでもないし、名誉や財産のためでもない。宇宙との一体化に向かって邁進することである。まわりを意識せずに錬磨する姿に涙して貰えるように一所懸命に稽古するほかないだろう。