【第853回】 宗教にあらずして宗教とは

合気道の開祖は、「合気道は宗教にあらずして宗教なのであります。」(武産合気 P.42)と言われている。これまで合気道及び自分自身の宗教について考えてきたが、ここいらでこれまでの考えをまとめてみたいと思う。きっかけになったのは『歎異抄』である。親鸞の言行録である。著者は親鸞の弟子の唯円(ゆいえん)です。
正確に言えば、読んだのは『歎異抄にであう』(阿満利麿 NHK出版)である。このNHKのテキストに『歎異抄』の解釈の他、『歎異抄』の果たした重要な役割、それに宗教について分かり易く書かれていたのである。そしてその宗教の定義によって、自分の宗教観が少し見えてきたようなのである。
因みに、親鸞の師、法然が起こした「浄土宗」の教えは、「南無阿弥陀仏」と念仏をとなえることで、貧しい人でも、極悪人でも「極楽往生」できるという教えである「新仏教」である。それまでの日本の仏教は、中国から伝来した宗派のもと、厳しい戒律を守り学問を修めることが重視されたため、僧侶以外の人には縁遠いものだった。また、この新仏教は天皇の勅許を得ていない未公認の宗だったのである。

1966年から7年ほどドイツに滞在したが、よくお前の宗教は何だと聞かれた。日本では考えもしなかったが、取り敢えず神道と仏教と答えておいた。
勿論、神道も仏教も熱心な信者ではないので、私の宗教は神道と仏教であると自信をもっては言えなかった。しかし、それぞれの行事には多少は参加している。お正月の初詣、お盆の墓参り等々である。

合気道の関係で、神様はいると思っている。神を信じなければ合気道の上達はないはずである。フトマニ古事記による合気道はまさしくそうである。以前に書いたが、ホーキンス博士、アインシュタイン博士等の偉大な科学者たちも神を信じている。神はいるが目に見えないということである。要は、神の姿はないが、神の働きがあり、その働きを神というのだと考える。

そしてわかったことは、自分にはやはり宗教があるということである。
このテキストによると、宗教学では、宗教を「創唱宗教」と「自然宗教」に分類するという。「創唱宗教」とは、教祖、教団、プロの宗教家がいる宗教で、「自然宗教」とは、地域や家庭で代々伝承されてきた宗教心を伴う習慣である。つまり、「自然宗教」とは、「いつの間にか自然と身についた宗教」であるという。因みに、「宗教」という言葉は、明治時代にキリスト教を前提に作られた新しい言葉という。また、一般に「宗教」という時は、キリスト教のような「創唱宗教」を指す。従って、暮らしに根差した習慣、風俗である「自然宗教」は、「宗教」には含まれない事になるわけである。故に、多くの日本人(70%強)は「無宗教」を標榜することになるというのである。
ということで、自分の宗教は「自然宗教」の宗教ということになるのだろう。

次に神についてである。合気道では神は存在するが目には見えないといわれる。神が目に見えれば、恐らく「創唱宗教」になり、合気道は宗教となるはずである。
しかし、「合気道は宗教にあらずして宗教なのであります」と宗教であるというのである。つまり、神があるということであると考える。
神があるとは、神そのもの姿形ではなく、神の働きであると考える。宇宙をつくり、万有万物を生み、育て、地上天国建設、宇宙楽園完成の生成化育の超人的な、摩訶不思議な働きである。
合気道もこの意味で、神を信じるが、教祖も教団もプロの信者も不在の「自然宗教」であるということだと考える。

親鸞の師である法然は、「本人が信じれば神仏は存在するし、信じなかったらどこにもいない。」と言っている。つまり宗教というのは、主観的事実だということである。
合気道も己自身も神仏を信じるか信じないかの主観的事実によって、宗教にもなり宗教でなくなるが、宗教の基はあるという事ではないかと考えている。


参考文献 『歎異抄にであう』(阿満利麿 NHK出版)