【第849回】 日々刻々戦い

会社勤めをしていた時は、毎日が戦いであったといえるだろう。会社との戦い、社員や部下との戦い、仕事との戦い、仕事の関係者との戦い等であった。
仕事を辞めてからは、その戦いから解放されるので、毎日、のんびりと暮らせていけるものと思っていた。また、戦いもなくなるので、のんびりし過ぎボケてしまったり、生きる張り合いが無くなるのではないかと心配したほどだ。
しかし、その希望と心配に反して、毎日が戦いの連続であり、緊張し、楽しくやっている。

勤めながらも合気道は続けてきた。合気道には勝ち負けがないと教えられている。試合もないし、高段者も初心者も同じ回数づつ技を掛け、受けを取ると時間的・機会的平等でもある。
しかしながら、若い頃は、このルールの中に置いて、やはり相手を何とか倒そう、相手に負けまいという戦いになることもあった。上手くなるためには他人に負けてはいられないと思ったからだろう。

高齢者になってくると、戦はなくなると思ったが、前述のように毎日、否、刻々が戦である。
しかし、若い頃の戦とは違う。若い頃の戦は他との戦いであり、高齢者になっての戦は己との戦いである。

私個人がどのような戦いをしているかをちょっと紹介してみると次のようである。
先ず、朝の起床から戦いは始まる。六時起床を目指すが五時ごろ目が覚める。この目が覚めて起き上がる前の一時間を現実的なことを考えずにボーとしていると、今日はこれをやれとか、あの問題の答えはこうだとか等いろいろなアドバイスがあったり、インスピレションが湧いてくる。この幽玄の時間が楽しいのでこの次元から起床の現実世界に入るのが最初の戦である。洗面の後は禊ぎに入る。若い頃は、今日は天気が悪いからとか、今日は道場で稽古をするからなどの理屈をつけてやらない日もあったが、今は毎朝やるようになった。また、体調が悪い朝もあるが、それに負けないように戦っている。お陰で、禊が日常化し、やらないと気持ちが悪いというようになった。これは一つの戦の勝利の結果である。

合気道の論文を書き続けているがこれも戦いである。毎週4編ずつ書いているが今のところさぼったことはない。これからも続くよう、また、少しでもいい論文が書けるように戦い続けていくつもりである。
合気道の道場稽古も勿論戦いである。勿論、自分との戦いである。魄に陥らないよう、宇宙の法則に反しないように、そして宇宙と一体となるように挑戦していくのである。

小さな戦いもあるが、それも楽しんでいる。
朝、手と顔を洗う石鹸は伝統的なシリアのアレッポ石鹸をつかっている。牛乳石鹸などの日本の石鹸は小さくなるとどろどろに溶けてしまうが、このアレッポ石鹸は微小になっても型崩れがしない。そこでどこまで小さくなるまで使えるのかと戦っており、小さくなってくると毎日、毎回見て楽しんでいる。今は長さ2cm、幅1cm、厚さ1.5mmというところである。
同じように、歯磨きチューブとも戦った。どこまで最後まで絞り切ってつかえるかの挑戦である。敵は中々しぶといものである。今は新しいチューブになったが、これとも戦うことになる。

謂わば、すべてが戦いの対照である。自分の体と心の戦である。食事でも、何にするか。この料理で十分か、不足しているものはないか。次は何を食べようか等である。食器洗いにしても、如何に手際よく、綺麗にするかの挑戦である。
また、やりたいことや行きたい所があれば、その気持ちを叶えるために、それを拒む気持ちや、時間や体調などとの戦いに勝たなければならない。

勤めていた頃の戦のように、避けられない戦いではなく、別に戦わなくても誰も文句を言わないものである。謂わば、己との自由な戦いである。自分を叱咤激励し、嘲笑し、鼓舞する戦いでもあり、楽しい戦いである。
高齢者になっても日々刻々戦であり、残念ながらボーとなどしていられない。