【第847回】 魄の上に魂を

合気道は魂の学びである。阿吽の呼吸の理念力で魂の技を生み出す道を歩まなくてはならないという。剣を使うかわりに自分の息の誠をもって悪魔を払い消すのである。つまり魄の世界を魂の世界にふりかえるのである。これが合気道のつとめである。魄が下になり、魂が上、表になる。それで合気道がこの世に立派な花を咲かせ、魂の実を結ぶのである。(合気神髄P.13)
このような教えに則って何とか魂の技を生み出すべく稽古をしているところである。お陰で最近、魄が下になり、魂が上、表になるとはどういう意味なのかがわかってきたし、技でつかうことができるようになったようだ。

これまでは手を出して相手に掴ませても、大した力は出せず、多少頑張っても力の強い相手には抑えられてしまっていた。この段階の手の力は、所謂、腕力という魄力である。これは体主動の魄が上になった状態である。

これが出した手が重くなり、相手の手とくっつき、相手の力を吸収し、手に己の体重がかかり、相手はこの手を上げたり抑えるのが難しくなるのである。そもそも相手はこちらの手を何とかしようなどと思わなくなるようなのである。これが手の上に魂がのった、魄の上に魂がのった状態であると感得する。

それではどうすれば手の上、魄の上に魂をのせることができるようになるかということになる。
まずは、息づかいである。「合気はある意味で、剣を使うかわりに自分の息の誠をもって悪魔を払い消すのである。つまり魄の世界を魂の世界にふりかえるのである。これが合気道のつとめである。魄が下になり、魂が上、表になる。」(合気神髄P.13)とある。
“自分の息の誠”とは布斗麻邇御霊とアオウエイの言霊の息づかいであると考える。アーとオーでうぶすの社の構えを取った手である。この手は魂が上になった手である。これを「体を宿として、土台として、その上に霊、魂を働かすのである。霊の思うままに体が動くことである。」(武産合気 P.99)と云う事であると考える。ここにもあるように、ここでは魂も霊も同じということにする。

片手取り呼吸法で、手の上、魄の上に魂がのるように稽古をすればいいだろう。後はその魂ののった手ですべての技をつかえばいい。