【第846回】 皆ことごとく自分の友達、師匠

合気道の稽古を長年続けてきている。年も取ってきたこともあり、これまでとは稽古の仕方や考え方が変わってきた。そして己の稽古が、稽古から修業の方向へと変わっているように感じるようになってきた。稽古と修業は何がどのように違うのかはまだよく分からないが、そう感じるのである。これまではおこがましくて、合気道を修業しているなどとは云えなかったし、思わなかったが、今は、少なくとも自分自身に対して、俺は合気道を修業しているんだと云えるようになった。稽古ではものたりない気がするようになったのである。

一段と深く、次元の違った稽古に入ったと思っている。技は変わったし、どんどん変わろうとしている。魄の技づかいから、息、そして気での技づかいに入ってきた。
といっても、稽古を低く見ているわけではない。稽古は重要だし、容易ではない事も承知している。

技が変わったことに次いで、技の次元・規模が変わったことである。これまでの人間相手の稽古、人間次元の稽古ではなく、天地と宇宙との一体化し、 天地・宇宙と共に、またその力を借りての稽古に入ったことである。

そして稽古のやり方と考え方も変わった。これまでの先輩後輩や強い弱い、上手い下手との関係での相対稽古ではなく、相手は自分の体と心で動いてくれる自分の分身であり、自分のかけた技の結果を示してくれる先生であり、敵ではなく仲間ということである。また、技を掛ける側は、受けの相手からいろいろ学ぶ事ができるから、相手は先生でもあり、上達するための恩人ということにもなるわけである。

相手は弱いとか、技を知らないから自分は上だなどと思わないで、相手からも教えて貰う事ができるわけだから、対等であるという心で稽古をするようになったことである。この己に自惚れない気持ちで稽古をすることは大事であり、稽古・修業の最後まで続けなければならない。何故ならば、大先生も最後までそのように修業を続けられておられたからである。これを大先生は、
「私には門人はありません。はじめから皆ことごとく自分の友達でありますし、また、自分の師匠さんであります。皆さんが稽古をしてくれればこそ、ぢぢいが本日あるのであります。皆さんを恩人と思うのであります。また、すべての万有万神ことごとく、ぢぢいに御協力していただいております。」(合気神髄P.29)
と言われている。

相対稽古で、俺は先輩だとか、俺の方が上手いからなどと思ったり、また、そのような態度で稽古をするのではなく、学んでもらう事も出来るし、こちらが学ぶ事も出来る仲間や師匠として稽古をすることである。これを大先生は、皆ことごとく自分の友達、師匠であると言われているのである。
この心は稽古の域を脱した修業の段階に入ったように感じる。