【第846回】 天地と宇宙との交流

前回の「第845回 日月の気と四つの宝」で、大先生の教えである「日月の気と天の呼吸と地の呼吸、潮の干満とこの四つの宝がわかってきたことによって、(真の)合気道は天地と宇宙との交流をしなければならないということが見えてきたので、今回はそれをテーマに書くことにする。

これまでの技の稽古を振りかえってみると、相対稽古の相手との交流はあったが、天地と宇宙との交流はなかったといえよう。だが、最近、フトマニ古事記の稽古に入るようになって、天地と宇宙の交流が始まった。お陰で、技は大分変ってきたし、また有難いことに先に光明(希望・可能性)が見えてきたようである。つまり、この交流前は壁にぶち当たり、前に進めない状態であったのである。要は、精進するためには天地と宇宙との交流が必要であるという事である。

大先生は、「私は自己のうちに天台をつくり、自己が天地と宇宙と常に交流するように心がけた。」(合気神髄P.14)と、天地と宇宙との交流をされていたわけである。
ここで気がついたことは、天地と宇宙との交流をして精進していくのは合気道の他にはないのではないかということである。他の武道や武術にはないだろう。合気道独特の稽古・修業法であると思う。
過って柔道創始者の加納治五郎先生が大先生を訪れ、大先生の合気道の技を見て感銘を受けたと言われるが、加納先生が感銘し納得したのは、大先生の合気道の 肉体的強さや上手さではなく、武道としての質、そして次元の違いにあったと考える。他の武道は人間同士の、人間相手のこじんまりしたミクロな次元でのものであるのに対し、合気道は天地と宇宙との交流によって、天地宇宙との一体化、天地宇宙の営み・力に則り、そして天地宇宙の力で技と体をつかうということである。スケールや次元が全然違うわけである。
これまで加納治五郎先生が何故あのように合気道に感銘をし、柔道の高弟を合気道に派遣したのかよく分からなかったが、これですっきりした。

また、戦前、綺麗どころも合気道を稽古しに来たが、実は、これもよく分からなかった。武道とは縁遠い女性が大先生のもとに教わりにきた真の目的である。その目的は、護身術のために強くなる事ではなく、踊りや動作をより美しく、上手にするためだったはずである。これまでは、天の浮橋に立つ事などを学びにきたのだろうと書いたが、何かまだ不十分だと思っていた。
そして、やっと彼女たちが求めていたものこそこの「天地宇宙との交流」であったはずだと気づいたのである。天地宇宙との交流することによって、スケールの大きい、別次元(顕界から幽界)の踊りや仕草・動作になることを学ぼうとしていたと考える。彼女たちはそれを意識しなかったとしても無意識の内にそれを感じていたはずである。

もう一つ気になる事が頭の片隅にあった。
大先生は、「スポーツとは、遊技であり遊戯である。魂のぬけた遊技である。魄(肉体)のみの競いであり、魂の競いではない。つまりざれごとの競争である。日本の武道とは、すべてを和合させ守護する、そしてこの世を栄えさせる愛の実行の競争なのである」(武産合気P.79)と言われていた。スポーツを「戯言であり遊戯であると」言われたが、ちょっと過激すぎるのではないかと思っていた。が、スポーツの人間次元で勝った負けたという狭い次元に対して、天地宇宙との交流という次元での合気道にくらべれば、大先生の言われていたことはなるほどと思えるようになった。

真の合気道は、人間相手、人間対象ではなく、天地宇宙と共にやることである。何故かというと、目標である地上楽園、宇宙天国建設は人間と天地宇宙が共にやらなければ完成出来ないし、完成に近づけないからである。
そのためには、前回の『日月の気と四つの宝』で禊をし、和合をし、天地と宇宙と交流していかなければならないわけである。
禊と和合は天地と宇宙だけでなく、当然、稽古相手にも必要である。相手をを禊し、つまり、相手の闘争心や我等を天国・楽園建設の生成化育のために稽古をするのだという心にする事である。己もその生成化育のために、相手は相手をしてくれていることに感謝する事である。ここから愛が生まれる。合気道は愛の武道と云う事になる。愛が天地宇宙との交流の稽古によって生まれることになる。 

天地と宇宙との交流の重要さがわかってくると、合気道が深まってくる。技は変わってくるし、心も変わってくる。『武産合気』『合気神髄』の大先生の教えもより理解できるようになるようだ。