【第845回】 息の働きと妙用

合気道を精進するということは何となくは分かっているだろうが、精進とは何かの意味を再度考えてみる必要があるだろう。
合気道の目標、つまり合気道の稽古・修業の目標は分かった。これまで書いてきたように、宇宙との一体化(小乗)と地上楽園建設の生成化育のお手伝い(大乗)である。これを合気道、合気道の技を練ってやるのである。従って、技が上手くなっていけば精進していると云えるだろう。
では、技が精進するとはどういうことなのかということになる。

精進には大小ある。小さな精進は毎日しているはずなので誰でもわかっているはずなので問題ないだろう。誰もが欲しているのは大の精進である。大の精進とは、質の精進、異質の精進と考える。技が大きく変わったということは、技の質が変わったということであり、異質の技に変わったということである。例えば、魄の次元の稽古から魂の次元の学びに変わっていく事である。

勿論、魄から魂の次元へ稽古を変えるのはそう簡単ではない。故に、まず、魄の肉体主動の稽古を息で体をつかう、息主動の稽古に変えることになるが、これが一つの精進であると考える。因みに、次の精進は息主動の稽古から気主動の稽古に変えることだと考える。つまり、魄の次元から魂の次元へ、より高度な次元での稽古・修業に移ることが精進であるということである。

さて、今回は息主動の次元での息についてもう少し深く掘り下げてみたいと思う。息主動で技をつかって稽古をしていて新たな息の働きと妙用を感得したわけである。
まず、これまで書いてきたように、息は腹と胸でする。所謂、腹式呼吸と胸式呼吸である。この腹と胸の呼吸の絶妙な働きと摩訶不思議さには驚かされるし、これまでそれに気づかずに息をしてきた自分が恥ずかしい。

人は生きている限り息をしている。起きている時も寝ている時も。勿論、歩いているときも息をしている。
しかし、歩いている時、息をどのようにしているのかを意識しない。それを意識するようになって分かった事は、歩いている時の息づかいは腹であるということである。足を右、左、右・・・と進める際、腹式呼吸に合わせて動かしているはずである。胸はほとんどつかっていない。胸の胸式呼吸はつかわない故に、歩きながら談笑したり、歌を歌ったりできるのである。しかし、歩き疲れるとか、坂など上るときはハアーハアー、ゼイゼイと胸で息をするようになる。話も出来ないし、歌も歌えない。これは腹の息づかいが胸の息づかいになったわけである。これを“息があがる”ということだと考える。“息があがる”を一般的にはバッテリーがあがると同じような意味でつかっているようだが、私は息が腹から胸にあがることだと実感する。

合気道では技を掛けるのに手をつかうが、息づかいが大事である。息を上手くつかわないと手が十分に働いてくれないからである。
簡単に言えば、手は胸の胸式呼吸でつかうのである。腹からの息(気)を胸に溜め、その息(気)を手先に流して手をつかうのである。腹で手を上げて使おうとすると強力な力が出ず、手の動きが止まり、相手の力で抑え付けられてしまう。諸手取呼吸法が上手くいかない原因の一つである。腹の息づかいで抑えられている手をあげようとすると、一度、動きの軌跡が切れてしまい、相手に抑えられて動かなくなるはずである。

もう一つ、息の働きとつかい方(妙用)があることがわかった。
息(気)を引くのは手先・足先の末端から、息(気)を出すのは体中(腹・胸)からということである。
技を掛ける際の手は縦と横の十字で気を生んでつかうわけだが、この気は体中(腹と胸)に気を集め、溜め、膨らましたものである。気を体中に引き、気で満たすためには、息を引きながら手を横に拡げていくと気が手先から腕、胸鎖関節、胸、腹を通り、気で体中が満ちる。因みに、体中を気で満たそうとしてはじめに体で息を引いても手先に十分な気が満たされず、力が出ないものである。

また、手先から気を出すのは体中からである。手先から気、力を出そうとしても大きな力が出ない。これが分かる簡単な日常的な例がある。街中を歩いている高齢者を見ると、体の末端の足もとから地に着いている。足がついて腰腹が落ちるか、足だけで腰腹も落ちない。これに対して、若者は腹から足で地に着いていることである。腹で歩いているという感じである。


合気道で息主動の技づかいの意味の一つは、このような息づかいを意識し、そして技でつかうということである。
技が精進するだけでなく、自分自身のことが分かってくるという精進でもある。