【第842回】 でき上がるな

人は皆、それぞれの役割を担い、地上楽園建設の生成化育に携わっている。言うなれば、皆仲間や家族ということになる。若い頃は、他人は競争相手であり、敵とさえ思えたが、合気道を長年修業することによってそれが分かってきた。他人には敬意を表し、親しく対処するようにしている。
しかし、偶にそれができない人に会うことがある。数は多くはないが、その人たちには共通点がある。それは俗にいうところの“でき上がっている”ことである。自分はできる、自分は上手い、自分は強いと思っていることである。当然、他人はそのように評価はしていないわけだが、本人だけがそう思っているのである。自惚れともいう。勿論、でき上がっているひとにも実力がある人もいるかも知れない。しかし、でき上がっている他人はどうも苦手である。

人は自惚れに陥りやすいものである。何かで読んだ話だが、ある落語家が高座で話しているのを、別の落語家の師匠と弟子が聞いて、弟子が「下手ですね」と言うと、師匠は「お前と同じぐらいだ」と言ったという。更に師匠は、「自分と同じぐらいだと思ったら自分より上、自分より上手いと思ったら自分より相当上というものだ」と言ったという。人が如何に自惚れしているかの戒めの例である。

自惚れにもいろいろあるが、合気道の世界でも、自分で気がつかないものもある。我々誰もが陥りやすい自惚れの例を紹介する。
過って、有川定輝先生の時間中に他の道場で稽古をしている稽古人と有川先生が教えておられる学校の生徒が一緒に稽古をしていた。二教の稽古になった時、他の道場からの稽古人は、稽古年数も古く、力もあったようで、生徒に対してこうやった方がいいとか、これは駄目とかいいながら稽古をしてたところ、有川先生がそこに行かれて、その稽古人に手を出させ、その手首を二教を掛けて折ってしまったのである。
今思えば、有川先生は碌に技も出来ないのに、でき上がってしまい、挙句の果てに他人に教えていることに我慢が出来なかったのだろう。私には出来ないが、先生にはそれだけの力があったし、先生さえもまだ不完全で精進しなければならないと思っておられたのに、実力もない未熟者ができ上がっていた事に腹を立てられたように思う。
尚、有川先生とは長い間、稽古や道場の外でもいろいろ教えて頂き、お話を伺ったが、先生の嫌がったことの一つが、でき上がった人であったと思う。どんなに有名で、つよかったり、上手かったりする人でも、自分はと自惚れ、でき上がった人は誰も認めなかった。

合気道の世界には、自惚の危険性、でき上がってしまう危険性があるように思う。何故その危険性があるのか、その原因は何かを考えると、主に次の二つであるようだ。

  1. 合気道には試合がないことである。試合がないから、自分は強いとも、上手いとも勝手に思えるというわけである。思うのは自由で無制限である。
  2. 所謂、魄の稽古からの脱出が難しいことである。顕界の稽古から幽界、神界への次元の稽古に入るのが容易ではないからである。魄の稽古は肉体の力に頼る稽古であり、競争と争いの文化である。魄の稽古には必ず限界が訪れ、壁にぶち当たることになる。大体は、ここででき上がってしまうのである。
自惚れることなく、でき上がらないためには、見える次元の魄の稽古から、目には見えない幽界、そして神界の稽古に入らなければならないと考える。顕界、神界の修行にはいれば、自分との戦いの絶対的な稽古になり、他人と比較したり争う稽古ではなくなるし、魄の肉体的稽古から心の稽古になってくる。自分の心の稽古になるわけだから、他人をとやかくするなどの余裕や興味はなくなる。この心の稽古には終わりがないから、でき上がることはできなくなるはずだ。
でき上がらない、自惚れしないためには魂の学びの稽古に向かって進まなければならないと考える。