【第842回】 天の浮橋に立つ 続き

前回の「第841回 天の浮橋に立つ」では何事も、“天の浮橋に立たして”から始まる」を主題に、徒手で技を掛ける際も、剣をつかう際もまずは天の浮橋に立たなければならないと書いた。
この天の浮橋に立って技をつかって行くと、間違いなく技が上手くつかえるようになるようだ。強力な力が出るし、切れ目ない動きが出来るし、無駄のない手先の軌跡が描けるのである。
そしてこの「天の浮橋に立つ」で幾つか分かった事があるので、前回の続きとして書いて置くことにする。

まず、「天の浮橋に立つ」とは、徒手や剣や、また、踊りなどの動きの前の姿勢であり、体勢であるということである。所謂、構えである。この構えから、無駄なく、最短時間で動くことができ、無駄なく、強く美しい動きができるのである。
合気道の相対稽古での「天の浮橋に立つ」の構えは、「うぶす」の社の構え」である。これを大先生は、「左足を軽く天降りの第一歩として、左足を天、右足を地とつき、受けることになります。これが武産合気の「うぶす」の社(やしろ)の構えであります。天地の和合を素直に受けたたとえ、これが天の浮橋であります。」(合気神髄P69)と言われているのである。

しかし、この「天の浮橋」がどのようなものか、どのように生まれるのかがまだよく分からない。もう少し研究が必要なので調べてみると次の大先生の教えが目についた。
「合気は天の浮橋に立たされて、布斗麻邇(ふとまに)の御霊、この姿を現すのであります。これをことごとく技にあらわさなければならないのであります。これはイザナギ、イザナミの大神、成りあわざるものと成りあまれるものと・・・。」(合気神髄 P153)である。この文章から、天の浮橋と布斗麻邇御霊とイザナギ・イザナミの大神が関係する事わかる。そしてここから古事記が関係している事もわかってくる。

そこで「天の浮橋」についての古事記の関係個所を見てみると、次のように記してある。大先生も研究されたはずの『大本言霊学』のものである。
「故、二柱?、立天浮橋而 指下其沼矛以畫者、塩許袁呂許袁呂通畫鳴而引上時、自其矛末垂落塩累積成嶋、是淤能碁呂嶋。」
訳:「故(かれ) 、二柱の神、 天(あめ) の 浮橋(うきはし) に 立(た) たして、その沼矛を 指(さ) し 下(お) ろして 画(か) きたまへば、 塩(しほ) こをろこをろに 画(か) き 鳴(な) して、引き上げたまふ時、その矛の 末(さき) より 垂(しただ) り落つる塩、 累(かさ) なり 積(つ) もりて島と成りき。これ 淤能碁呂島(おのごろじま) なり。」

この天の浮橋に立った二柱の神は伊邪那岐神と伊邪那美神であり、この二柱の神の(布斗麻邇)御霊は、「擬水火を吹ならして動き動きついは━の形をなし、の形をなし、|━イキ全て定まり、は伊邪那岐神にしては伊邪那美神の神なり。天浮橋という言義ココロは、アは自と云うととなり。メは回ることなり。ウキはウク・ウキと活用ハタラキ、ハシはハス・ハシと活用詞にて、ウは水にしてたてをなし、即ち○|なり。ハは火にして横をなす。則ち○━なり。水火自に回り浮発て竪横をなすを天浮橋というなり。」
更に、「天地人間初めて気を発するの義なり。故に二柱神立天浮橋而と云うなり。孕て胎内に初めて動くは天浮橋なり、大橋なり。是のごとく如く天地の気吹々人の息吹々て其末滴りて露の如くの玉を為す。是を塩累積成嶋というなり。」とある。

天の浮橋に立った構えは、天と地を結び、伊邪那岐神の御霊の○━と伊邪那美神の○|の|と━の十字という事になろう。「うぶす」の社(やしろ)の構え」であり、ここから気が生まれ、気が出るのである。実際、○|で腹から胸に気が上がってくるので、相手の攻撃にすかさず対応できると考える。