【第841回】 孤独ではない

人は高齢になるに従って孤独になっていくようだ。子供たちは独立して離れていき、その内に連れが先立つ。友人や知人も縁遠くなり、まわりには誰もいなくなる。偶に、友人と会ったり、孫たちに会っても終わってしまえばまた一人である。

孤独とは結局は人との交流がないということだと考える。家族をはじめ、仕事の関係者、近所の人たち等々との交流がないことである。
最近は誰も見取ってくれない孤独死や死んでも一週間気づかれずにいたなどというニュースをよく聞く。孤独で寂しく亡くなったと哀れである。

しかし、己自身も傘寿を過ぎていて、女房にも先立たれ、子供も孫もいないので、孤独な一人暮らしをしているが、そのような悲壮感はない。女房があちらにいってしまった時は、一寸落ち込んで孤独の心配もしたが、今では賑やかに楽しくやっている。

交流は家族や仕事関係者や近所の人たちとだけ行う事ではない。知らない人たちとも交流できるし、また、人だけではなく、犬や猫や小鳥などの動物、金魚やメダカなどの魚、カブト虫などの虫等などとも交流できる。所謂、ペットとして自分の家族や友達のように交流できるわけである。
人は動物だけではなく、植物とも交流できる。つまり、人は生物と交流できるという事である。

交流するのは心であろう。己の心と人や生物の心との交流である。人に心があるということは問題ないだろう。また、動物や植物をペットとして可愛がっている人は、彼らに心があることは分かっているはずである。だから人と同じように挨拶したり、言葉を掛けたり、触ったりするのである。
そこからも想像つくわけだが、ペット以外の動物や植物には心があることになる。同じ生物だからである。その生物のあるものがペットになっただけの話である。ペットだから心があるということではない。
故に、動物や植物の生物との交流をすれば孤独はなくなるか、少なくとも癒されるはずである。

ここまでなら納得してもらえるはずだが、人には更なる交流がある。それは無生物との交流である。無生物にはいろいろある。山や岩や石、仏像や絵画、手作りの家具や食器、絵画や仏像や茶道具、本やおもちゃ、それに大量製造された食器やプラスチック製品等々である。
これらのモノにも心があるから交流ができるはずなのである。
大人になると子供の頃を忘れてしまうようだが、子供の時は、気に入ったおもちゃと友達のように遊んでいたはずである。まるで人間の友達のように話しかけ、遊んでいたものである。お互いに心があるからである。また、子供が電車や汽車を見れば、生き物のように声をかけ、手を振っている。子供はそこにも心を感じ、交流しているのである。つまり、無生物にも心があるということである。

実は、生物だけではなく無生物にも心があるということは合気道の教えにあるのである。合気道の教えは、「物と心は、一切万物が持つものであります。」ということである。物が生まれれば、必ず心があるということであり、目にする物(人間、生物、無生物)には心があるのである。
この合気道の教えのお蔭様で、高齢になっても孤独にならずに楽しくやっている。朝起きれば、先ず、女房の写真に挨拶。通る部屋に「おはよー」と挨拶。洗面所で自分に挨拶。歯、目、鼻、耳、頭に今日もよろしくと挨拶。お日様にご挨拶。新聞に「おはよー」と挨拶して目を通す・・・。この調子で一日、いろいろなモノと交流している。従って、交流は主に、ご挨拶と感謝になる。
仲間がいる、交流がある。孤独ではない。