【第841回】 『うぶす』の社(やしろ)の構えで
開祖の教えを記した『合気神髄』『武産合気』には、これまで詳細な体や技づかいは記されておらず、合気道の大局的な教えであり、具体的・実践的な教えではなく、後は自分たちで研究せよと、その教えの解答をこちらに預けられ、直ぐには技づかいに結びつかない教えであると思っていた。例えば、「合気道は形はない。形はなく、すべて魂の学びである。」「合気道は松、竹、梅の三つの気によって、すべてができています。」「合気道は、どうしても「天の浮橋に立たして」の天の浮橋に立たなければなりなせん。」「合気道は宗教にあらずして宗教なのであります。」「(合気道は)天地人和合の理を悟ることです。宇宙の真理のごとくは技に表わすことができます。」等などのような調子で教えておられるが、そのために具体的にどうすればいいのかが記されていないと思っていたのである。
ところが、これは間違いであったことがわかった。具体的に手足のつかい方が詳細に、微に入り細に入り示されていたのである。それは『合気神髄』の中の「十種の神宝も三種の神器もみな、身の内に」の項にあり、その主題である「『うぶす』の社(やしろ)の構え」である。
これまで考えもせずに、相手の打ってくる手や掴んでくる手を捌いてきていたが、これでは武道の稽古にはならないと思うようになった。もし、そのような動きや捌きをしていたならば、昔の刀を手挟んだ武人の時代では通用しないはずである。特に、相手の攻撃に対する構えが無い、または出来ていないという事である。
大先生は、この構えが大事であるということと、そのためにどうしなければならないのか、体をどうつかえばいいのかを懇切丁寧に教えて下さっていたのである。実際に、この教えに従って技と体をつかえば、これまで以上に上手く技も体も働いてくれるのである。
その教えを引用し(「 」内)、解説してみる。
- 「大八州は、鳥生み国生みの順序に従って、これを齋めつつ道を生むのであります。」
<解説>布斗麻邇御霊の運化に従って技と体をつかわなければならないということでる。
- 「西北(乾)は物と心の始まり、西と東北(艮)はこれに順じて三位一体となります。」
<解説>右構えで、後ろ足が東西の方向を向き横、前足は南北の縦で十字に形に成る。
- 「左足を軽く天降りの第一歩として、左足を天、右足を地とつき、受けることになります。これが武産合気の『うぶす』の社(やしろ)の構えであります。天地の和合を素直に受けたたとえ、これが天の浮橋であります。片寄がない分です」
<解説>布斗麻邇御霊の天之御中主神御霊で天の気と結び、そして高皇産霊神・神皇産霊神の御霊でその気を地の左足に下ろし、そして右足にその気と体重が移動し、それが右足に載る。ここまでを言霊をつかえば、アとオでやることになる。この構えが「『うぶす』の社(やしろ)の構え」である。この構えは天の浮橋である。天にも地にも、体にも心にも隔たりがなく、そして地から気が湧き上がってくる。まさしく、「うぶす」であり、「『うぶす』の社(やしろ)の構え」であることを実感する。
上記の図の三位一体でこの「『うぶす』の社(やしろ)の構え」をした構えの姿の写真がこれである。
大先生の教えには、何事も仕事を始める際には、まずは天の浮橋に立たなければならないといわれることに合致しているわけでる。つまり、天の浮橋に立つこの構えだから、次の仕事をはじめることができるわけである。
- 「左は発し、右はこれを受ける、物と心を受けて生むのは女であって、これ魂のモチロの中心であります。」
<解説>後ろの左足から右足へ気と体重を移動するのである。これが上手く出来れば、右足(女)がしっかり働いてくれ、気(魂)を生む基になる。
- 「右足をもう一度、国之常立神の観念にて踏む、右足は、オノコロ島、自転公転の大中心はこの右足であります。今度は左足、千変万化、これによって体の変化を生じます。」
<解説>右足をしっかり踏むと、この右足が体の中心、宇宙の中心と感じる。そしてこの右足がしっかり地に着くと、左足が自由自在に動くようになり、体が自由に動けるようになる。
- 「また右足は国之常立神(女神)として動かしてはなりません。すべての気を握るのは、この右足国之常立神であります。」
<解説>これは重要な事であるが、注意しないと中々実践できないようなので大先生は強調されておられると考える。この右足を動かしてはいけないということは、何度か大先生からお聞きしていたが、何故なのかこれまで分からなかった。実際に技を掛けてみるとそれが分かる。
まだまだ、『うぶす』の社(やしろ)の構えについての教えはあるわけだが、文量も多くなったのでこれまでとする。
尚、この「『うぶす』の社(やしろ)の構え」のご説明は刀を構える右半身の構えであるが、勿論、左半身でも出来るようにしなければならない。刀を差していた昔は右半身だけを稽古していればよかったわけだが、刀を差さない現代では右も左もつかえるように鍛えなければならないと思うからである。これは合気道の知恵であり、教えであるだろう。
いずれにしても、技をつかうに際しては、徒手は勿論、剣でも、杖でも、居合でもこの「『うぶす』の社(やしろ)の構え」から始めなければならないと考える。
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