【第840回】 合気剣に辿り着く

合気道の技は剣から来ているといわれるから、剣の勉強もしなければならない。しかし、合気道の剣は剣道の剣とは違う。基本的に、剣道の剣は自分とは別物の剣を扱う術であるが、合気道の剣は己の手であり、己の手を剣として扱うのである。これらが上達してくれば、剣道の剣も己の体の一部の手として使うようになるし、合気道の手で剣もつかえるようになるわけである。
つまり、合気道においては、己の手を剣としてつかえるよう、そして剣を己の体の一部の手としてつかえるようにならなければならないということである。

合気道の剣を合気剣といい、剣道などの剣とは異なると考える。大先生の剣の映像(写真)を見れば一目瞭然である。違いは、目に見えるものと目には見えないものがある。例えば、大先生の剣は隙がなく、絶対不敗の態勢にあることである。相手が早く打ったり、遅く打つに関係なく、また、強く打つ、弱く打ちに関係なく相手を制しているのである。

50年以上、剣の研究もしてきた。有難いことに、生前の大先生の剣、合気剣を直接拝見することもできた。また、ビデオや写真での勉強もやってきた。しかし最初に思ったのは、大先生のような合気剣は大先生しかお出来にならないのではないかとの悲壮感であった。この諦め、悲壮感をつい最近までもっていたが、我々凡人にも出来るのではないかという希望を持ったのである。
そう思ったというより、これが合気剣だと感じたわけであるが、頭で解ったというより、体がこれでいいと反応してくれるのである。ようやく合気剣に辿り着いたようなのである。

一人の稽古仲間が久しぶりに道場に来て、稽古が終わった自主稽古に、木刀で打つので、これを捌いてみてくれというのである。相対で剣を振るなど何十年ぶりかであるので、一瞬、戸惑ったが相手に好きに打たせることにした。結果は、驚いたことに、相手がどのように打とうが、突こうかに関係なく、その打ち・突きを捌きを制しているのである。剣道のように相手の剣を叩いたり、弾いたりせずに自由自在である。大先生の気持ち、息づかい、体づかいはこれだと直感した。

体が直感したのに加え、大先生の教えの言葉が突然理解できたのである。
「いかなる速技で、敵がおそいかかっても、私は敗れない。それは、私の技が、敵の技より速いからではない。これは、速い、おそいの問題ではない。はじめから勝負がついているのだ。敵が『宇宙そのものである私』とあらそおうとすることは、宇宙との調和を破ろうとしているのだ。すなわち、私を争おうという気持ちをおこした瞬間に、敵はすでに敗れているのだ。」(武産合気P.8)
実際に、相手(敵)が構えているだけなら何も起こらないが、そこから私を打ち込もうと思った瞬間にそれが見えると同時に、こちらの体が反応し、相手を制しているのだ。ここでは速い、遅いは関係なく、こちらがゆっくり動いても、相手は相当な速度に感じるらしい。

では合気剣で、今まで出来なかったことが出来るようになり、解らなかった事が解るようになったのは何故かということである。
まず、50数年間、合気剣をつかえるようになろうと修業してきたことである。この合気剣という目標を信じ、突き進んできたことである。その為にも、やるべき事をやり、やってはならない事をしないよう、合気道の教えを信じ、守り、身に着けてきたことである。
そしてそれらの積み重ねが、ようやく集大成し、それが結果として合気剣にも現われてきたと考える。

合気剣をつかうに当たって大事な事が幾つかあると思う。これがないと合気剣をつかおうとしてもつかえないのである。 最近これらが身についたので、合気剣が出来るようになったのだろう。長い道のりだったが、一寸身についただけである。これからの道のりは、まだまだ長いはずだ。