【第838回】 顕幽神界

大先生の道話でもよく耳にしたし、『武産合気』『合気神髄』の中でもよく目にする語に「顕幽神界」がある。顕界は、この世の世界、また幽界は仏教の世界、神界は魂の世界である。大先生からこれは何度もお聞きしているので、試験問題として「顕幽神界」とは何かが出れば合格となるだろうが、何もわかっているとは思えずに悶々としていたというのが実情であった。

顕界は問題ない。この世の目に見える、人々が日常を営んでいる世界である。所謂、物質文明、競争社会、魄の世界である。
しかし、幽界からが難しい。幽界は仏教の世界ということであるので、はじめは、幽霊の世界ということで幽霊のような技づかいをしなければならないのかと思ったこともある。が、長年試行錯誤して稽古をしている内に、次のような解釈をすることになった。
幽界とは、顕界に対照する世界である。顕界の見える世界に対して、目に見えない世界であるということである。また、モノ主体の物質文明に対して心・精神主体の精神文明であり、顕界の競争社会に対しての和合社会であるということである。
技をつかうに際しても、顕界では腕力や体力の魄主体の技になり、魄力が勝るものが制することになるが、幽界では目に見えない力が体に代わって主導権を有し、体を制し導く。その目に見えない力は息・呼吸、そして気である。
はじめは息・呼吸で体と技をつかう鍛錬をしていくと、いずれその息が気に代わり、気で体と技をつかうようになるのである。

さて、最後の神界である。これまでは幽界の稽古で精いっぱいだったし、神界など畏れ多いし、近づけないように思っていた。
しかし、前回の「第837回 空の気を解脱して真空の気に結ぶ」にあるように、空の気を解脱して真空の気に結べば神界に入れるし、神界の技がつかえるはずだということが分かったのである。
何故ならば、空の気とは物の霊の力で重い。この空の気で相手に触れたり技を掛ければ、体の力以上の大きな力が出るが、この空の気の技づかいの次元が幽界であると感得する。

そしてこの重い空の気から真空の気に結んだ次元が神界ということになるだろうと考える。神界に入ったかどうか体の動きと技で分かる。幽界の次元と違うようだからである。幽界では気によって体と技をつかうが、その気は心に導かれる。つまり意識した動き、技づかいということになる。それに対して、神界で真空の気に体と技が結ぶと、体と技は無意識の内に動いてくれるのである。
大先生は、「身の軽さ、早業は真空の気を持ってせねばなりません。」と言われているのである。
しかし、本人が無意識でも何かが動かしているはずである。それは宇宙の心である魂であると考えている。つまり、神界とは魂の世界ということになるだろう。ということは、顕界と幽界は魄の世界、神界は魂の世界ということである。尚、幽界を魄の世界とするのは、大先生が「顕界はこの世の現れた世界。幽界は物の世界、物の魄の世界。神界は神の世界ということである。」とも言われているからである。幽界は物の世界、物の魄の世界の物とは気と考えればいい。気は見えないが有る物である。幽の体である。

合気道は禊ぎである。つかう技は禊ぎになっていなければならないが、「この顕幽神の三つの世界を建てかえ、立て直しをしなければいけない。」(合気神髄p.138)と教えがある。一つの技をつかう際にも、顕界を浄め、幽界を浄め、そして神界も浄めるという事である。まず、顕界で姿勢を正し、三位一体の構えをとって体を浄め、幽界で天地の息・気と一体化し、空の気で身心を浄め、そして神界で空の気と真空の気を結び、己の真の心、魂を禊ぐのである。要は、技を顕幽神界でつかうということである。剣をこれで振ると分かり易いだろう。剣を構え(顕界)、重い空の気で振り上げ(幽界)、そしてその重い空の気を脱して空の気で素早く振り下ろすのである(神界)。
因みに「神業」とは。神様がつかう神様の業ではなく、神界での業と考えるべきだろう。また、技は顕界・幽界での人工的なテクニックであり、業は神界での超人的で無意識な働き、宇宙の営みであると考える。よって、神技はない。