【第837回】 更なる気の養成

これまで書いてきているように、大先生の教えの布斗麻邇の御霊の重要性が分かってくるし、この布斗麻邇の御霊の姿を形に現わさなければ技が生まれないことを確信することになった。大先生が云われている「合気は天の浮橋に立たされて、布斗麻邇(ふとまに)の御霊、この姿を現すのであります。これをことごとく技にあらわさなければならないのであります。」の教えを忠実に守って、技を練る稽古をしていかなければならない事を改めて実感したわけである。

お陰で、これまで何気なくつかっていた技を、布斗麻邇の御霊の姿に合わせて意識してつかってみると、それまでと違ってくる。これまで出来なかった技が容易に出来るようになったり、また、これまで上手く出来ていたと思っていた技が法則違反であったとか、また、何故、上手くいっていたのかの理由も分かるようになったのである。例えば、私の二教裏は結構効いていたが、何故効くのかなどはあまり考えなかった。
そこで改めて考えていると、効いた理由は、吐く息○と引く息□の息づかいが布斗麻邇の御霊の姿形に合致していた事と、○十と□十の二つの玉でやっていたことであると分かったのである。赤玉、白玉と天地の力のお世話になっていたわけである。人の力を超越した力であるから効くわけである。

しかしながら、布斗麻邇の御霊の姿形に合わせた技づかいをしていても、よく注意してみると、まだ完全ではないことが見えてくる。その典型的な例は、技が切れてしまうことである。布斗麻邇の御霊と次の御霊に移る際に体の動き、息づかい、気の流れや軌跡が切れてしまったり、歪んでしまうのである。一つ一つの御霊の形は出来ているのに、次の御霊の形に上手く繋がらないのである。技や体の動きが途中で止まってしまえば、相手の動きも止まってしまい、相手に頑張られたり、返されてしまうし、また、ゼロからのやり直しになってしまうので不味いのである。

この上手くいかない結果を注意深く観察すると、手や体に気が満ちていない事、気が各御霊の姿に十分入っていない事、気が御霊から御霊につながって順序よく流れていない事等が見えてくる。その結果、手が折れたり曲がってしまい、強力な力が出ないのである。上手くいっていると思っている二教裏でも、もう少し手先に気が満ち、体の動きが切れず、また気の軌跡が無駄なくいけばもっと上手くできるはずだと思うのである。
しかし、自分では自分なりにやるべき事はやったと思うので、これをどうすればいいのかを考えなければならないことになる。

先ず、体に気を満たすことである。これまで以上に体、手、足に気を満たすのである。それまでは三元の剛柔流の内、無意識の内に柔の稽古で柔の気を出していたようなので、今度は剛の次元で気を出し、満たすようにするのである。手先や腕は気で満ち、強力な気力が出るようになる。
次に、この剛の気で満ちた手、足、体をその満ちた気が欠けないように布斗麻邇御霊とアオウエイの言霊でつかうのである。これによって腹中を鍛え、胸中を鍛え、更なる気の養成をするのである。○十によって腹中の気、□十によって胸中の気を養成するのである。
気が引っ込まないようにしなければならないが、その為にも気を強力で強大にしなければならないだろう。弱くて小さな気では次の御霊に繋がらない。

これは手、足、体の気の養成ということになるだろう。また、この五体の気は、天地と結び、相手と結ぶ響きであると考えるが、大先生は、「五体の<響き>は心身の統一をまず発兆の土台とし、発兆したるのちには宇宙の<響き>と同調し、相互に照応・交流しあうところから合気の《気》が生じる。すなはち、五体の<響き>が宇宙の<響き>とこだまする<山彦>の道こそ合気道の妙諦にほかならぬ。」と言われており、合気の気が生じ、そして合気道の卒業になる山彦の道につながるということなのである。

要は、気を入れて技の稽古をすることだと考えている。