【第835回】 日々、必ず修業

大先生は「禊をして精神の立て直しすることは特に合気道を学んでいる各自にお願いしたい。日々、必ず修業してほしい。」(合気神髄P.152)と言われている。また、合気道は禊であるとも言われているわけだから、合気道は日々、修業しなければならないということになるわけである。
実は、上記の教えの前に「禊は、はじめに述べたように立て直しの神技の始めに行ずるのであるが、禊をして精神の立て直し・・・」とあるので、禊は技の稽古の前にやるものかと思っていたが、合気道は禊であるとすれば、この技の前の禊は“禊ぎの禊ぎ”と言えるだろう。実際に、瞑想したり、詔を唱えたりするのも、単独や相対での技の稽古をするのも禊に変わらないと実感している。

半世紀以上合気道をやってきたが、今は道場での相対稽古と自宅での単独稽古をしている。道場稽古は週3回なので、これだけでは日々修業していることにはならない。日々の修業は自宅での単独修業である。仕事も止めて時間に余裕ができてから毎朝、続いている。
このような稽古は若い頃は出来なかったし、しようとも思わなかった。一人での単独修業より、相手とぶつかり合う相対稽古に熱中したからだ。学生時代は時間が十分取れた上に、元気もあったので毎日道場に通った。それでも元気が余っていたのか、一日一時間の稽古では満足できず、二時間、三時間とやっていた。若い頃も日々、稽古(修業)したわけだが、道場での相対稽古が日々の修行だったわけである。

学校を卒業して、いろいろあった後、会社勤めをするようになると、日々の修行は難しくなり、雨だれ式のぽつぽつ稽古になった。偶にやる稽古なので、溜まったエネルギーを発散すべく、荒っぽい稽古になってしまったようである。また自宅での単独稽古も雨だれ式だった。この日々、修業ができなかった期間は20年以上続くことになる。
そして定年となり、日々の修行が始まったわけである。

日々、修業をするようになって、前出しの大先生の教えの“日々、必ず修業してほしい”の意味・重要性が分かってきた。何故、偶にではなく、日々修業しなければならないかということである。その理由を次のように考える:

  1. 世の中は日々変わる。日が出て沈み、朝がきて夜になる。人間・生物の心体も日々の周期で働いている。生きる周期の基準は日々であるということである。
  2. 人間・生物の生きている周期は一日一日の日々であり、日々得たモノが積み重っていく。例えば、覚えるのは一日一つであり、覚えたモノを一日は体が覚えており、そして次の日につながるという日々のシステムがあるように思える。故に、一日修業をさぼれば、一日分の精進はなくなることになる。
  3. 日々修業をしていくと、何者かが導いてくれるようだが、無断でさぼると機嫌を損ねて教えてくれなくなるようである。導き、教えてくれる何者かは、毎朝、今日はこれを教えてやろうと手ぐすね引いて待っていてくれるように思えるので、さぼる事は出来ないのである。
故に、日々、禊をすれば必ず何かを得ることが出来るし、不要なものが取り除かれる。これが精進であり、禊であり、上達と云う事になろう。
日々、必ず修業を続けたいと思っている。