【第834回】 気は霊界で生む

『合気道の思想と技 第834回「気を感得」』で書いたように、気を感得出来るようになり、多少なりともつかえるようになってきたがまだまだである。言うなれば、ようやく“気の入り口”に入りかけたところなのである。
しかし、気を出すことが出来るようになった。気を出すためには、息や体を十字につかわなければならないし、天の浮橋に立たなければならない等の要件を満たさなければならない。恐らく、気を出すためには更なる要件があるはずだと思う。もしかすると無数にあったり、複雑に絡み合うものかもしれないとも思っていた。
だが、これまでの修行の体験から、合気道の技は宇宙の法則に則っていることが分かっているし、そしてその法則は非常にシンプルであることも分かっているから、気を出すためのシンプルな法則があるはずだと期待していたところ、その法則に辿り着いた。

それは、“気は霊界で生む”という法則である。大先生は「始め霊界を造らねば気は生まれぬ。」(合気神髄p.131)と教えておられるのである。これは顕界では気は生まれないということと、顕界から霊界に入らないと気は生まれないということである。
とすると、次の要点、つまり問題は、霊界とはどういう世界かということである。また、霊界は幽界とは違うのかということである。更に、どのようにすれば霊界に入いれて気を出し、気を生む事ができるかということである。

まず、霊界である。大先生は、「その大虚空にある時、ポチ(ヽ)一つ忽然として顕わる。このポチこそ宇宙万有の根元なのである。そこで、はじめ湯気、煙、霧よりも微細なる神明の気を放射して円形の圏を描き、ポチを包みて、はじめて「ス」の言霊が生まれた。これが宇宙の最初、霊界の初めであります。」(合気神髄p.110)とか、「天の浮島というのは「ア」は自ら、」「メ」は巡るといい、自ら巡るというのが天の、浮島の方は・・・二つのものが水火結んでいく、霊界と顕界も一つにする。」(合気神髄P,140)等などと霊界をご説明されておられるが、また、「顕界はこの世の現れた世界。幽界は物の世界、物の魄の世界。神界は神の世界。」「顕は顕れた世界、は仏の世界、仏教です。神は神の世界」(合気神髄 P.26)、「(水中においての禊)で、この水の世界にも顕神の三界がある。顕神というのは、つまり顕界は、この世の世界、また幽界は仏教の世界、神界は魂の世界。この三つの世界を建てかえ、立て直しをしなければいけない。」(合気神髄p.138)等々と幽界という言葉もつかわれているのである。感じとしてはどちらかというと、幽界の方が霊界よりも多いように思う。

霊界と幽界と言葉が違えば意味も違うはずであるが、我々のレベルでの合気の修行に於いては同じ意味と捉えていいと考える。更なる精進のためにはその方がいいと考えるということである。
また、もう一つの理由は、一般的な霊界と幽界の解釈に次のような解釈があるからである。つまり、「霊界は、『死後に霊ないしそれに類するものが行き着くとされる世界』、『死後の世界』、『精神の世界』、『非物質世界』などといった宗教上の概念に対する総称。霊界という概念は古今東西に存在するが、それが意味する内容は個々人や信仰(宗教的立場)によって極めて異なる。」である。(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
また、譬え、霊界と幽界を厳密に「幽界はミソギの場であり、現界での罪・汚れを消し、執着を捨て、想念転換し、悟ることにより上の段に昇り、最上段に達した魂は神の許しが出て霊界に上ることができる」と区別したとしても、幽界と霊界は繋がっているからである。が、強いて言えば、幽界は顕界に近く、霊界は神界に近いということだろう。

さて、本題の「気は霊界で生む」に戻る。これまで気を出し、気を生むために、布斗麻邇御霊の象でアオウエイの言霊をつかったり、十字に息や体をつかったり、天の浮橋に立ったりしてきたが、つまり、これは霊界をつくり、顕界から幽界に入るためだったわけである。
この理がわかってくると、無意識に霊界が出来て気が生まれたり、意識的に霊界をつくり気を生んでいる事を自覚するようになる。例えば、天と地をアとオで結ぶとそこに霊界が出来、気が生まれる。この気が手先に伝われば、その手で相手にくっついたり、相手を制し導くことができるほど強力なものである。
更に、ここから、今度は横(━)と縦(|)の十字で伊邪那岐・伊邪那美によるオノコロ島の霊界ができ、気が発生することになる。これを『大本言霊学』では、「天地人間初めて気を発するの義なり」と言っている。
この十字を手や体と息でつくり、天の浮橋で顕界から霊界(幽界)に入り、気を生み出していけばいいと考えている。