【第831回】 フトマニ古事記・布斗麻邇御霊を更に理解するために

合気道は魂の学びであるから、魄の稽古から魂の稽古へ変わっていかなければならない。といって、魄の稽古が悪く、魂の稽古がいいということではない。大先生も言われているように、魄も大事であり、魄の肉体をしっかり鍛えなければならない。この魄が土台となり、魂が働くことが出来るようになるからである。
しかし、魄の稽古から魂の稽古にすぐに移れるわけではない。それはこれまで研究してきた通りである。魄の稽古、肉体主動で技をつかう稽古から、息で肉体をつかう息主動の稽古、気で肉体をつかう気主動の稽古と変わってきたわけである。

気を感得し、気を生み、気をつかうことが出来るきっかけとなったのはフトマニ古事記の布斗麻邇御霊である。恐らくフトマニ古事記の布斗麻邇御霊の理解なしに気を感得し、気を生み、気をつかうことは出来なかったと思うし、技の進展は望めなかっただろう。
大先生は、「以前、神通千変万化の技を生み出す、ということは真空の気と空の気を、性と技とに結び合ってくり入れながら、技の上に科学すると申し上げたことがあります。これは皇祖皇宗のご遺訓たるところのフトマニ古事記によって、技を生み出していかなければなりません。フトマニ古事記とは神代からの歴史であり宇宙建国の生命線であり、我が国はこれを憲法としている」(武産合気P77)、また、「合気は天の浮橋に立たされて、布斗麻邇の御霊、この姿を現すのであります。これをことごとく技にあらわさなければならないのであります。」(合気神髄 P153)と教えておられる。

しかし、はじめは、フトマニ古事記とは何か、布斗麻邇御霊はどういうものなのかなど、よく分からないだろう。『武産合気』や『合気神髄』をいくら読んでも分からないと思う。それ故に恐らくほとんどの人はギブアップするだろう。
それでは、フトマニ古事記とは何か、布斗麻邇御霊はどういうものなのをどうすれば分かるようになるかということになる。

私の場合もどうすればいいのか全くわからない白紙の状態だったわけであるが、偶然、ある本『言霊と日本語』(今の真二著、ちくま新書)に出会い、フトマニ古事記と布斗麻邇御霊を知ったのである。そしてまた、大本教教祖の出口王仁三郎がそれを重視し、それに関しての書籍『大本言霊学』(出口王仁三郎著)を発行していることを知った。そこで『大本言霊学』とその基となる『言霊秘書―山口志道霊学全集』(八幡書店)を入手し、研究出来たわけである。
大先生は大本教でも過ごされたわけだから、この『大本言霊学』も学んでおられるはずだと思っていたが、その確証はなかった。
しかし、最近、『合気神髄』のある箇所を読んでいると、大先生は確かに『大本言霊学』からフトマニ古事記と布斗麻邇御霊を研究されている事が分かったのである。
『合気神髄』では、「合気道は、真の日本武道であります。それは地球修理固成に神習い布斗麻邇の御霊から割れ別れし水、火をいただいて、研修のすえ出生する魂の気を、人類のうちに現わしていく事であります。即ち合気道は“小戸の神業”をいただくのがもとであります。合気道は宇宙の大虚空の修理固成です。」(合気神髄P.64)とある。
これを『大本言霊学』では、

「ヽ、━、|、十、ノ、ヽ、二、フ、○、□等
此形は布斗麻邇御霊より割別たる水火すいかかたちなり。是をもて天地の気を知ることを得」とある。

大先生は合気道、武道の達人・名人ということで、肉体的な鍛錬は行ったおられたのは容易に想像できるが、読書での修行をされているのは想像しにくい。しかし、大先生は読書三昧にふける修業にも専念されていたのである。(写真)故に、『大本言霊学』も十分に研究されたはずである。
本題に返る。大先生の『武産合気』『合気神髄』でのフトマニ古事記と布斗麻邇御霊がよく分からなければ、大先生が研究されていたはずの『大本言霊学』を研究すればいいと考える。今になると分かるが、これなくしてフトマニ古事記と布斗麻邇御霊を更に理解することはできないと考える。