【第830回】 “外に美があるわけではない!“

波乱万丈な短い生涯を送り、「麗子像」(写真)等の多くの名作を残した、大正から昭和初期に活躍した洋画家の岸田劉生は、「外に美があるわけではない。自分の中にある。」と言ったという。

これまで美に関しても不可解なことがあったが、この言葉で少しすっきりした。
例えば、一枚の絵を見ても、見る人によって「素晴らしい」と評価する人もいれば、逆な評価をする人、また、何とも思わない人もいる。絵そのものは同じでも、その美の評価は人によって違うのである。これは音楽を聞いても同じだし、自然の景色や風景を見ても評価が人によって違う。同じものに対して、感動したり、無感動だったり、無視する。

岸田劉生の言葉から、絵そのものに美があるのではなく、それを見る人にあるということであり、その人に美的センスがあればそれ相応の美を感じるということだと考える。
これを延長して拡大解釈すると、合気道の教えと一致すると共に、これまで不可解だった合気道の教えも分かってくる。

人は、この美だけでなく、真や善、天地、過去や現在や未来、顕幽神界等々は外にあると思っているわけだが、自分の中にあるということである。これが分からなかったわけだが、これも合気道の教えの中にあることが分かってきたのである。
それらの教えの例を引用すると、 岸田劉生の「自分の中」を合気道では「身の内」「腹中」「体内」等といい、五井昌久先生は「人間の奥深い内部」と表記している。

美が見えるためにも自分の中の美意識・センスを洗練していかなければならないわけだが、どうすればいいのかということになる。
合気道は、この身の内の鍛練でもあるという。鍛錬の初めはその身の内を知る事であると、「人の身の内には天地の真理が宿されている。人というと万古不易の真理が宿らぬ者はなく、それは人の生命に秘められているのである。本性のなかに真理が宿っている。」(合気真髄 P84)と教えている。
故に、合気道とは、「森羅万象を、正しく産みまもり、育てる神の愛の力を、わが心身の内で鍛錬することである。」(武産合気P.46)、また、「武道の鍛練とは、森羅万象を正しく産み、まもり、育てる神の愛の力を、我が心身の内で鍛錬することである」ということになるのである。