【第828回】 松竹梅

大先生の合気道の教えは難しい。この教えがすべて理解出来、身につけることが出来れば大先生のようになれるわけだが、難解であるし、よって身につけることもできないわけである。しかしながら、少しでも理解しようと、時間を掛けてくると、その教えがポツポツと分かるようになってくるし、また、これまで何故、大先生の教えが分からなかったのかも分かってくる。何故、これまで分からなかったのかについては以前書いているが、簡単に言えば、目に見えない次元、幽界の稽古・修業に入らなければならないということである。目に見える、物質科学の次元・顕界の稽古をしているかぎり、大先生の真の合気道の教えは分からないし、身に付かないということである。

『武産合気』『合気神髄』を読んでいくといろいろな教えに出会うが、松竹梅の教えが印象深かった。合気道はこの三つでできていると教えておられるのである。松竹梅は目に見えるモノであるが、この三つをどうつかっても合気道の技をつかえるようになるようには思えず、分からず、この教えは分からないままにしていた。

松竹梅という言葉やイメージは華やかでめでたい事もあり、常に頭の片隅にあったし、何とかこの松竹梅で真の合気道に進んでいきたいと思っていたようである。
そして次の大先生の教えに出会い、これが松竹梅の教えであろうということが分かってきた:

つまり、松竹梅は、松竹梅の気を指し、その松竹梅の気とは生産霊、足産霊、玉留産霊であり、そして赤玉、白玉、真澄の玉であるということなのである。
従って、合気道の技をつかう際は、塩盈玉の赤玉、塩涸玉の白玉、風の玉の真澄の玉でやらなければならないということである。

また、松というのは、「表裏がない。顕界も幽界もなく」「大神さまの「ス」の現れ」「三角の気が昇り」と言われている。生産霊、足産霊、玉留産霊は△○□であるから、松は△となる。
この内、松は「三角の気が昇る」について研究してみると分かったことがある。
それは「心は丸く体三面に進んでいかなければならない」と言われるように、「体を△に象り(かたどり)、入身したり、進んでいかなければならないという意味が分かったことである。入身投げだけでなく、一教でも、呼吸法でも体を△にして進んでいかなければならないということである。正面打一教、呼吸法でも上手くいかないのは、この△法で入身をしていないという事がわかる。
この△法が分かり易い方法がある。手先を合わせて△をつくり、その△の象で入身すればいい。また、剣を振り上げるのもこの三角法で天に昇ればいい。
△は気にして力を生じることを実感できる。慣れてくれば、手で△をつくらなくとも気で△をつくって入身すればいい。
これが三角法で、武道の初めの仕組みであり、不敗の体勢と言われることだと考える。

竹は、塩涸玉の白玉であり、○である。そして竹は、気の修練、須佐之男の神さま、力の大王・武道の大王と言われる。竹で大きな力・気の力が出、相手を導くことになる。

梅は、風の玉である真澄の玉であり、□である。赤玉、白玉のように一見強力に働いていないようだが、非常に威力がある。謂ってみれば、空気で制しているようである。大先生は、梅は天の浮橋のことであると言われているように、天にも地にも隔たらない働きがあるのはこのことを言われているように感得する。

大先生は「その頃合気道の稽古はやめました。ただその時体得した、松竹梅の剣法が残ったのです。」(武産合気P.71)と言われているが、剣法が松竹梅によって出来上がっていたということだろう。
故に、まず松竹梅で剣をつかうと松竹梅が分かりやすいようだし、この松竹梅で合気の技もつかわなければならないことも分かってくる。
「合気道は松、竹、梅の三つの気によって、すべてができているのである。」つまり、合気道の技は△○□で出来ているわけだから、△○□で技や体をつかわなければならない。松竹梅で技をつくっていくわけである。