【第825回】 有川定輝先生の想い出と教え
有川先生が亡くなられてはや20年近くになる。先生にはいろいろ教えて頂き、その教えに従って稽古を続け、そして日常の生活も過ごしている。
これまでは余り気にしていなかったが、最近、有川先生には多くの大切なことを教えて頂いたのだと改めて想い出したのである。教えは、合気道だけではなく、日常生活の分野にも及んでいたのである。もし、有川先師との出会いがなく、教えを受けていなければ、今の私の合気道は無かったはずだし、人生も変わっていたはずである。
そこで今回は、有川定輝先生の想い出と教えを改めて想い出してみたいと思う。
私が合気道に入門したのは1961年であるから、この年から先生には合気道を教わっていることになる。先生は水曜日に教えておられた。当時は私は学生で時間があったので、日曜日も含めて毎日、稽古に通っていたが、一番緊張した時間は有川先生の時間であった。その為か、時として有川先生の時間は敬遠しようかと思ったこともあったが、結局、有川先生の時間はよほどの事情がない限り出ていた。そんなこともあってか、先生は稽古の前や後に時々言葉を掛けて下さったり、ご自分のことを話されたりした。例えば、「銀座四丁目から一丁目まで、歩道を人を避けずに真っすぐ歩いてきた」と少し自慢げに謂われた。我々なら、人にぶつからないように左右に避けるわけだが、それを真っすぐ行通したと謂われたのである。よほどの度胸と力がないと出来るものではない。所謂、気の稽古をされたということだったと思った。これはご自身への挑戦であったと思うが、他にも挑戦されていた事を話された。それは、手の指の爪を魔法使いのように長く伸ばされていたのを、「どうだこれは?」と謂われて我々の稽古仲間3、4人に見せられたのである。私の感想は、こんなに爪を長くしたら道着に引っかかったりして技をつかえないだろうということだった。しかし、先生の技は通常と変わらなかったわけだから、爪の長さには関係ないという事、つまり爪を立てない事の重要さを実践されたのだと考えた。もう一つの先生の挑戦が、真夏の暑い盛りだったが、「俺は、一週間風呂に入っていない」といわれたのである。我々が一週間風呂に入らなければ、匂うし、垢もたまり、かゆくなるが、先生にはそんな様子は微塵もない。新陳代謝がいい先生の体を一週間風呂に入らないでどのようになるか試されたのだと思っている。
これらの話は旧道場時代の事であった。私は旧道場で5年ほど稽古した後、ドイツに行ったので7,8年間、有川先生にお会いしない事になる。
帰国後、また、本部道場に通うが、仕事の関係があるので、以前のように毎日稽古に通う事は出来なくなった。そして最終的に水曜日の有川先生の時間と金曜日の道主の時間に決めた。そしてまた、有川先生からいろいろ教わることになったのである。当時はまだよく分からなかったが、先生は大事な事を教えて下さっていたのである。例えば、
- 道場は神聖な場であるということを、身をもって示して下さっていたのである。道場の出入りの時のお辞儀、稽古を始める前の正面に向かっての坐礼の際、正面を外して坐わられ、礼をされていた。また、技を示される際も、正面にお尻が向かないようにもされていた。更に、最も感激したのは、先生が正面の上段を通られる際は、頭を軽く下げて通っておられたことである。
- 道場ではこのように厳格で美しい立ち振る舞いをされておられたが、稽古も厳しくご指導されておられた。所謂、先生にとっては真剣勝負だったということである。
或る時、先生が云われたのは、稽古中、稽古人の一人一人がどのような稽古をしているのか、どんな間違いをしているのか、何を悩んでいるかなど、すべて見えているといわれたのである。それが証拠に、誰かが変な事をやっているとすぐに注意に行ったり、上手くいかないで悩んでいると、技を掛けて、受けを取らせてくれたり、臨機応変にご指導されていた。
このように一瞬で全体を把握するのは、演武会での観戦でも同じだった。ちらっとご覧になり、良し悪しやどこが悪いのか、どの程度のレベルなのかを判断されておられた。
また、道場で稽古人に技を示される際は、必ず最高の技を示そうとされておられた。今思えば、その最高のイメージこそが最高の教えであるとの教えであったということである。
- 先生は稽古が終わって、食事にご一緒する途や、食事の際、「今日の稽古は、どうだった」と聞かれるのが常だった。この意味は、晩年まで分からなかったが、先生が亡くなられる数年前にようやく分かったのである。先生は、毎回の稽古で具体的なテーマ(目的)をもってやられていたのである。私がそれに気がついた時の稽古のテーマは、手の肘づかいであった。肘をつかって二教や四方投げで肘を鍛える稽古であったのである。「今日の稽古は、この肘でしょう」とお答えした時、先生がちょっと狼狽されたのが印象的だった。恐らく、「今日の稽古は、どうだった」の答えは出来ないだろうと思われていたのだろう。
- 先生の身体能力、特殊能力には驚かされた。例えば、先生の突きは天下一品であったと思う。あのような強烈で伸びのある突きは他に見ない。先生は松濤館流空手を学ばれたわけだが、相当鍛錬された上に、合気道を通して更なる精進をされたと思う。当時、先生の突きで、手先が10cmほど更に伸びるのが不思議であったが、合気道の十字の稽古で肩を貫くことによって伸びることが分かった。
また、先生の指の力は超人的だった。集中力に加えて、指先の関節が柔軟・強力だったのである。指先の関節を柔軟にするには、指を折った指先の一番目の関節と二番目の関節を直角・鋭角にしなければならないと謂われると同時に、先生の指でそうされて悲鳴をあげたのを覚えている。
- 先生は、「道場へ入る時は左右どちらの足から入るのか」と聞いてこられたが、答えは言われなかった。この答えを教えない質問には更に次のようなものもあった。「袴は左右どちらの足から履くのか」。先生は、いろいろ質問をするが、答えは一切言われなかった。自分で考えろという事だったのである。初めは、これでは教えにならないのではないかと思ったが、よく考えるとこれが最高の教えなのである。何故ならば、物事を学ぶ上で一番大事な事は、何が問題なのかということである。これが問題だとわかれば90%その解答は出来ていると云えるだろう。つまり、何が問題なのか、何が分からないのか分からないのが一番の問題だということである。先ずは問題を見つけろということでもあったのである。
- 先生は勉強家であった。承知のように武道に関する資料は12tを超えるほどだったといわれる。武道の関する資料は見つけると即購入された。この次来た時などと言っていると無くなってしまうかもしれないといわれていた。晩年、新しい武道関係書が出ると、あれは読んだか、買ったかと必ず聞いてこられたので、何か新しいものが出ていないか注意するようになったし、いい物ならすぐ購入することにしている。
武道に関係のないような本も、「これはいいぞ」と推薦されるので購入したものもある。例えば、日本舞踊の最高峰と言われた武原はんさんの『舞踊の研究』である。確かに勉強になる。
また、購入したものに対して、どうだったと感想をもとめられることもあった。例えば、『裏形 大東流合気柔術「秘伝目録」』でどうだったと先生が聞かれたので、自分ではよくわからなかったが、先生はあまり褒めないで批判する方なので、大したことないですねとお答えしたら、「これを出した者は破門ものであるほど貴重なモノだ」というようなことを言われて反省し、まだまだ勉強不足であることを改めて悟ったしだいであった。
また、『大東流合気武術』と題する本が出て、あれはどうだったと聞かれたので、今度は前回の失敗をしないように「あれはいいですね、勉強になりました」とお答えしたら、あれは本物でない、そんなことも分からないようでは駄目だと、また、叱られてしまった。まだまだ、本物、偽物の区別がついていないという事であった。
- 叱られて学んだことで印象的なことがある。当時は腕力、体力、勢いで技をつかって、相手を投げていたが、先生の「そんなことをやっていては駄目だ」等と注意を受けていたので、どうすればいいのか試行錯誤していたわけだが、はたと、力を抜けばいいのだろうと思って、先生に、「力を抜けばいいわけですね」と云うと、「力が無い者に力は抜けないだろう」と云われてしまって、ギャフンである。
- 先生には注意をされたり、叱られたりしていたが、一度だけ褒め言葉を貰った。それは、自分が書いた『ビジネスのための武道の知恵』をお送りしたら読んでくださり、私の自分の言葉で書いたのがいいと云われたのである。これが、初めにして最後の褒め言葉である。しかし、この先生の褒め言葉のお蔭で、今の論文が書き続けられているといってもいいほど有難いと思っている次第である。
- 最後に、有川先生最大の教えがある。それは、「俺を目標にしないで、俺が目標とした開祖を思いながら稽古をすればいい。」「開祖に思いを馳せながら稽古しなければならない。課題を持ってやるだけなら練習だ。課題を持ってもいなければ練習にもならない」「稽古によって先人と繋がってくる。開祖と繋がってくる。それが合気道の精神的意義に裏付される道に繋がってくる。その為に技を深めてゆく稽古をしなくてはいけない、稽古を厳しくやらねばならない、厳しさとは、ごまかしのない事である」であり、有川先生も開祖を目標に稽古をされておられたし、また、我々も開祖を目標に稽古をしなければならないという教えである。
まだまだ先生の教えはあるが文量が大分多くなったのでここまでとする。稽古を続けて行くうちに、また、有川先生の教えを思い出すことになるだろうから、その際は、また、先生の思い出と教えを書くことになるだろう。
参考資料 『有川定輝先生追悼記念誌』
Sasaki Aikido Institute © 2006-
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