【第825回】 合気道から真の合気道、武産合気へ

今年(令和四年)の合気会鏡開きでご挨拶された多田宏先生が、合気道を精進する者は、大先生の教えである『武産合気』『合気神髄』を、難解だろうが暗唱しなければならないと話されたことに、感銘を受けた。久々にいいスピーチを拝聴させて頂き感謝しているところである。
私も、合気道を精進していくためには、この両聖典を読まなければならないと確信しているし、これを読まずして、合気道の精進は出来ないと思っているからである。
多田先生が云われるように暗記をすればいいのだろうが、怠け者の私は暗記の努力はしていない。が、毎日、少しずつではあるが両書を繰り返し々々読んでいる。何回読んでいるのか数えていないので分からないが10〜20回ぐらいにはなるだろう。「読書百遍意自ずから通ず」というから、まだまだである。

『武産合気』『合気神髄』を読んでいくと、いろいろと大事な教えがあることがわかってくる。これまでも分かった事等を論文に書いてきたが、今回は、主題のように、「合気道から真の合気道、武産合気へ」を書きたいと思う。
私自身は気づいていたことであるが、多くの合気道家が、まだ気づかなかったり、無視しているが、これに気づかなければならないし、無視してはいけない教えであると思う。もし、気づくことなく、また、無視すれば、その結果、合気道とはこんなものか、こんな程度のものかと思ってしまい、上達はないし、挙句の果てには、合気道の稽古・修業に興味を失い、止めてしまうことになるだろう。つまり、今回は合気道にとって、肝心要の教えということなのである。恐らく、長年稽古を積んできた人にとっては、耳の痛い、時には腹立たしい論文になるだろう。しかし、敢えて書くわけだが、これは私の論ではなく、合気道をつくられた植芝盛平大先生の教えなのであるから仕方がない。

まず、一般的に云われる合気道は完全なものではないという事である。この合気道を更に精進させなければならないのである。大先生はそれを、「合気道の技の形は体の節々をときほごすための準備です。これから六根の罪けがれをみそぎ淨めていかなければなりません。」(「武産合気」P.37)と教えておられるのである。つまり、一般的に云われる合気道は、形稽古であり、体のカスを取る、次の段階の合気道の為の前段階であるということなのである。そしてここから、六根の罪けがれをみそぎ淨めていく段階に入らなければならないのである。つまり、合気道は禊であるという段階に入るわけである。

それでは、合気道の次の段階・次元の合気道は何かというと、大先生はそれを「真の合気道」と云われている。そして、「これから私は、この世に命の続かんかぎり、あくまで世のために必ず地上に、真の合気道を樹立したいと心得ております。」(合気神髄P.99)と云われているのである。ここからも分かるように、「真の合気道を樹立したい」と、これからの合気道、真の合気道の樹立を目指されておられたわけだから、合気道から真の合気道を目指されたことになるわけである。

大先生は、真の合気道をどのように謂われているかというと、「合気道は宇宙のいとなみが自己のうちにあるのを観得するのが真の合気道なのであります。」(武産合気 P.48)と謂われておられる。この真の合気道とは、宇宙の営みに合して技を生み出す、宇宙との一体化を図る合気道ということになる。しかし、どうすれば宇宙との一体化が出来るのかは、この真の合気道では見当たらない。

しかし、大先生は宇宙との一体化やどうすれば宇宙のいとなみが自己のうちにあるのを観得することが出来るようになるのかを他で教えて下さっている。
簡潔にいえば、真の合気道を武産合気と謂われ、この武産合気でそれを教えておられるのである。
つまり、「天台に立って、東天に向かって礼拝する。地球の中心に立って、天地万有万真と共に,打揃って、そして感謝を捧げる祈りである。これが真の合気道であり、武産である。」(武産合気P.79)とあり、これでも真の合気道は武産合気であることがわかるだろう。
従って、武産合気を知ることによって真の合気道を知る事ができるはずである。

そこで『武産合気』から、武産合気とはどのようなもので、どのような稽古・修業をしなければならないのか、大先生の教えを書いてみる。

合気道は見える世界、魄の次元の、人を対象とした武道であり、真の合気道、武産合気は見えない世界、魂(真の心、精神)の次元、宇宙を対象とした武道である。宇宙は無限であるから、真の合気道、武産合気の修行に終わりがない。合気道から真の合気道、武産合気に変わっていかなければ、本当の合気道の素晴らしさや有難さは分からないのである。