【第824回】 ひらめき

合気道は科学である。やるべき事を順序よくやれば、誰でもどこでも同じ結果が出せるということである。また、科学には理があり、原理原則があるから、法則があることにもなる。
合気道を半世紀以上稽古してきて、過去を振り返ってみると、稽古のやり方が節々で変化しているのがわかる。
初めは、指導者の先生が示した形を、取りと受けでただ繰り返して覚え、身につけていた。これで基本の形を覚え、そして合気の体が出来てきたのである。この段階では、稽古をやればやるほど成果が上がるものである。

次の段階になると、相対稽古の相手を上手く投げようとか、抑えようと欲が出てくるようになる。はじめの内は上手くいくが、段々と上手く投げたり抑えることが出来なくなり、時として、争いになってしまう。形で相手を倒したり、抑えるのには限界がある事をまだ知らないのである。
しかし、この段階は長く続き、人によってはこれで終わってしまう人もいる。
この段階を脱却しなければならない。しかし、そう容易ではない。何故ならば、新たな段階への稽古を、これまでのように他人から学ぶ事は難しいからである。それまでの段階までは、先生や指導者から学ぶ事ができるが、その先は自分で切り開くしかないと思うからである。換言すると、見える次元の魄の稽古は教えて貰えるが、見えない次元の魂の稽古は自得するほかないということである。

私も20、30年に亘って、力に頼り、相手を倒すのを目的とした魄の稽古をやってきた。しかし、有難いことにそれでは駄目だと気づかせてもらうことができたのである。私の場合は、腕力での魄の稽古でやっていては駄目で、この次元から抜け出さなければならないと気づかせて下さった先生がおられたことが幸運であった。有川定輝先生である。先生は何も説明はして下さらなかったが、それに気づかせて下さったのである。初めの内は、中々先生の意図するものがわからなかったし、何故、相手を倒すのを目的としてはいけないのか、力に頼ってはいけないのか、力をつかわないで何で技を掛ければいいのか等の葛藤があった。

それから20年ほど経つ。その間、有川先生の動き、手足のつかい方などを稽古時間やその後の時間でも注意して見させて頂いたり、先生の演武会や講習会などでビデオを撮らせて頂いて研究した。先生ご健在の間は残念ながら、先生の技を、何をどう見ていいのか、何が大事なのか、何を学ぶべきなのかが全然わからなかった。
しかし、先生がお亡くなりになった頃から、先生の教えがどんどんわかってきたのである。そして先生の技のすばらしさや武道家としてのすばらしさが実感出来るようになったのである。
更に、有川先生の素晴らしさがわかってくると、大先生の技や道話も少しずつ分かるようになってきたのである。そして同時に、それまでチンプンカンプンであった『合気神髄』『武産合気』も少しずつ氷解してきた。

ここで本題にもどす。本題は「ひらめき」である。「ひらめき」の重要性の強調である。
最初に、合気道は科学であると記した。科学であるから理で追及することになる。確かに、合気道の技は理によって構成されるし、また、自分のつかった技は理によって説明できなければならないと思う。
しかし、長年の合気の修行の結果、理だけでは不十分であることを経験するようになる。例えば、有川先生の技を身に着けようとすれば、それは理の組み立てでできるモノではない。まずは、「あ、こうか。こういうことか」との一寸の「ひらめき」を得ることだろう。「アルキメデスの原理」のアルキメデスが風呂に入ってお湯が流れ出たときの「ひらめき」である。これを理論化、言語化したのは、この後になるから、まず「ひらめき」があり、その後に理論となるわけである。合気道にとっても、この「ひらめき」が如何に大事であるかということなのである。「ひらめき」がなければ、合気道の上達は難しいと思う。
更に、大先生の教えの『合気神髄』『武産合気』も理で読もうとしても難しいはずである。頭でいじくりまわしてもわからないのである。普通の書籍のように、目で読んでもわからないはずである。両書は見える世界ではなく、目に見えない次元の世界での教えであるから、心・精神で読むことになる。故に、「ひらめき」が大事なのである。
「ひらめき」で両書をみていき、「ひらめき」で技をつかっていくと、直感、体感が働くようになり、大先生の教えや有川先生の技を感得し、体得できるようになるようである。