【第821回】 気で技を生んでいく

第630回で『息で体と技をつかう』を書いた。腕力や体力などの力で技をつかうのを、息で技をつかうように代えるのがいいということである。息で技をつかえば、それまでの腕力に頼ったものより力も出るし、技の軌跡の断続も無くなるし、技が遅速・大小等自由につかえるようになるからである。因みに、この気で技をつかうようになれば、相対稽古の相手に怪我をさせることは無くなるはずである。危ないと思った瞬間に技や動きを止めたり、抑えることが出来るからである。もしも、怪我をさせてしまったとしたら、息ではなく腕力をつかったことになるだろう。

尚、息で技をつかい・生み出していかなければならないということは、私が考え出したことではなく、大先生の教えである。大先生は、「合気はいつもいう通り、地の呼吸と天の呼吸とを頂いてこのイキによって(略)技を生み出してゆくのである」と教えておられるのである。また、「人の息と天地の息は同一である。つまり天の呼吸、地の呼吸を受け止めたのが人なのです。」と云われておられるわけだから、技をつかうその人の息によって技を生み出さなければいけないことになるわけである。

今回は、この息で技をつかうを一歩前進させたものである。息の代わりに気をつかい、気で技を生んでいくのである。
気というのは、形がないし、見えないので、示したり、表現するのは難しい。自ら感じるほかないように思う。要は、悟ることである。『合気道の思想と技』の「第813回 気についての中間まとめ」で、気についてそれまで悟ったことを書いて置いた。

息で体と技をつかっていくと、気が生まれてきて、息に気が入り、そして気が主体となって技を生んでいくようになる。体はエネルギーで満ち、手先からは大きなエネルギーが流れるようになる。体は息で満ちているのではないし、手先から息が出ているのではないから、これが気であることが分かる。
また、技も体も自由につかえ、動けるので、どこかで止まってしまう息とは違う。

大先生の教えのように、技は気によって生んでいくものであることが分かる。
大先生は真の合気道(武産合気)は、「気剛柔流、気△○□を根本として気によって技を生んでいくのをいう」と教えておられる。つまり、気によって、剛柔流と△○□で技を生んでいくということである。
要は、気が生まれなければ、剛柔流や△○□がつかえないし、技にもならないということでもあると考える。

更に、「以前、神通千変万化の技を生み出す、ということは真空の気と空の気を、性と技とに結び合ってくり入れながら、技の上に科学すると申し上げたことがあります。これは皇祖皇宗のご遺訓たるところのフトマニ古事記によって、技を生み出していかなければなりません。」と云われている。
つまり、布斗麻邇御霊の運化に則って生み出される真空の気(宇宙の気・霊気)と己の空の気(物の気・己の気)を結び、技を生み出していかなければならないということであろう。
また、気で技を生んでいくためには「フトマニ古事記」(布斗麻邇御霊)が必須であるという事である。「フトマニ古事記」(布斗麻邇御霊)なくして気は生まれないし、技も生まれないという事である。