【第820回】 気で体をつくり、体・技をつかう

体と技を、何も知らないはじめは、魄の力でつかっていた。この期間は相当長く続くようだ。私の場合は半世紀に亘った。魄の次元から抜け出すのは容易ではないということである。
この後、魄力に代わって、息で体と技をつかうように心がけて稽古をしてきた。これまで書いてきたように、先ずはイクムスビの息づかいで、体と技をつかってきた。イーと息を吐き、体を進め、クーで息を引いて体を拡げ、ムーで息を吐いて体・技を収めるのである。縮んだり、歪んだ手はこれで名刀のように真っすぐになるし、強力な力も出て技も掛かり易くなる。
このイクムスビの息づかいで技をつかっていくと、腹中や胸中が鍛えられ強靱で柔軟になる。これを身につけるのはそう難しくないだろう。

次に、体をつくり、体・技をつかうのは布斗麻邇御霊の息づかいとアオウエイである。天地創造と天地の営みに合した息づかいで体をつくっていくわけである。この息づかいはこれまで書いてきたように、身につけることは容易ではないだろう。イクムスビで腹中と胸中が強靭で柔軟にならないと布斗麻邇御霊の息づかいは難しいはずだからである。先ずはイクムスビの息づかいを身につけることであると考える。

イクムスビ、布斗麻邇御霊の息づかいで体と技をつかっていくと、気を自覚するようになる。これまで漠然とこれが気なのか、気なのだろう等と稽古していたが、これが気であり、どうすれば気を生み出し、つかう事ができるかがわかってくるようなのである。
気がわかってくると、気をこれまでも無意識の内に生み出し、つかっていたことが分かってくる。その顕著なものが二教裏の受けである。息を吐くのではなく、息を引き乍ら耐えていたことである。初心者は息を吐きながら耐えようとするが、息を引き乍ら耐えると、吐くより引く方が痛くないだけでなく、強力な力が出ているのである。この息を引くことによって生まれた強力力こそ気であったということである。これは誰でも実感出来る。三教裏の受けでも同じであるし、合気道のすべての技に通ずるはずである。

勿論、技をつかう際も気でやることになる。先ずは、これまでつかっていた息を気に変えればいい。息は強弱、長短に限界があるが、気にはそれがなく、自由で無限である。息が切れた時、気で補えば、気が息の代わりに働いてくれるから、それが気と自覚できる。息でやるより、強弱、遅速など自由自在にできる。喩え、息が切れても、気によって体の動きや技は切れることなく動く。だから、有川先生などは話をしながら、説明しながらでもしっかりと技を掛けておられたが、これは気によるものであったのである。

気は強力なエネルギーを有していることは、先述の二教裏の受けの際でもわかるだろう。技を気でつかうということは、気の体で技をつかうということにもなる。体を気で満たすことである。体は手と足と胴体と頭で構成されるから、手と足と胴体と頭にも気が満ちることになる。
技をつかう際は、気で満ちた手、そして体を気で満たしてつかわなければならない。体も手も気で張った状態になるだろう。体、特に胴体を気で満たすのが難しい場合は、手先を十字につかって気で満たすと体も気で膨らむはずである。

技だけではなく、柔軟運動で関節を伸ばす場合も気でやらなければならない。
布斗麻邇御霊とアオウエイでやるのである。ウー、エーのところの十字から気が出て来て、その気が関節の結びを解き、骨や筋肉のカスを消滅し、体を柔体にしているような不思議な感覚になる。

気が分かってくると、その前の次元の息や魄がわかってくるから面白い。今は気も十分にはわかっていないだろうが、次の魂の次元に行けば、気がこんなものだったのかと更にわかるはずである。気をもう少し深く研究することにする。