【第817回】 自分との戦い

合気道は難しいと、ますます思うようになってきた。そのひとつは、理念と実際が大きく違う、というより正反対な事が多いことである。
まず、理念を悟る事が難しい。尚、ここでの理念とは合気道の教え、開祖大先生の教えである。そして、その理念を実践する事が難しい。更に、沢山の理念があるということである。

合気道の理念を知らずに稽古をしていっても精進できない。
従って、上達するためには合気道の理念を悟り、地道に実践稽古を続けて行くしかない。
今回はその理念の一つである、“合気道とは自己との戦い”であるについて研究してみたいと思う。
合気道の稽古を、道場で、相対で稽古して技を磨いていくわけだが、慣れてくるのに従い、相手を何とか倒そう、決めようという稽古になってくる。本人はそんなことなく、優しくやっているよと思っているかも知れないが、残念ながら、これが事実である。私も経験しているからそれがよく分かるし、よく見える。例えば、相手を小気味よく投げたり、二教や三教などで決めれば気持ちがいいだろう。また、逆に、相手に頑張れたり、動きを止められた稽古の後は、気分が悪いはずである。
つまり、稽古相手との相対的稽古をしているわけである。相手の体力や腕力が弱かったり、気力や意志や念が弱ければ、相手を投げたり抑える事ができるわけである。逆に相手が強ければ、技を思うように掛ける事もできない。
技が決まれば気持ちがいいし、掛からなければ面白くないだろう。つまり、相手に依存した稽古をしているということなのである。

合気道はこのような相手との戦いではない。それでは誰と何との戦いなのかというと、自分との戦い、自分の戦いなのである。昨日の自分よりレベルアップする戦いであり、前者の相対的な戦いに対して絶対的な戦いである。そして自分の戦いの主な対象は、宇宙の法則を悟り、身につけ、技に取り入れていくこである。
この次元になると、相手は敵ではなく、協力者であり、自分の分身ということになる。そして相手もない、敵もいないということになるわけである。相手は誰でもいいということにもなるし、相手が居るだけで有難く、相手に感謝ということになる。
これを大先生は、「真の武道には相手もない、敵もない。真の武道とは宇宙そのものと一つになることだ。宇宙の中心に帰一することだ。」(合気神髄p.115)と教えておられるわけである。

合気道は武道であるから、技を掛けられた相手は、倒れなければならない。しかし、合気道では相手を倒すのではなく、相手自ら倒れるようにならなければならないのである。もし相手が倒れなければ、その技は失敗作である。
これが合気道の難しいところであり、深淵なところである。倒さないで倒れるのパラドックスに合気道の素晴らしさがあると考える。
しかし、この理屈がわかれば、頭で理解するのはそう難しいことではないが、実践するのは難しい。
以前から書いているように、技は宇宙の法則に則ってつかっていくというプロセスを踏めば、その結果、相手は自ら倒れることになるのである。要は、やるべき事を順序よくやっていくプロセスの結果、相手が倒れるわけである。
相手を倒そうと思って動いた瞬間に、相手はそれを必ず感知し他人となり、反抗的な反応を示すはずである。これが争いのもとになり、相手が敵に変貌するのである。

合気道は自分との戦いをしながら技を練っていき、その結果、稽古相手(敵)が喜んで倒れていくという武道であるが、大先生が云われたように、このような武道は他にないだろう。
昭和5年10月に、加納治五郎先生が、過って目白台にあった道場に開祖を訪ねられ、親しくその眼で開祖の気・心・体の神技を一見され、「これこそ私が理想としていた武道、すなわち正真正銘の柔道である」と云われ、そして数日後、講道館の望月稔、武田二郎両氏を開祖の門へ出向させたのである。(『合気道開祖 植芝盛平伝 講談社 P.204』
加納治五郎先生は、理想の柔道を探究されていた折に、開祖の神技をご覧になり、合気道のように、倒すのではなく、倒れる武道であるべきと思ったのではないかと拝察する。

因みに、加納治五郎先生は、明治42年日本人初の国際オリンピック委員に選出されながら、終生柔道のオリンピック競技種目になることに消極的、反対だった、と聞いているが、先生は柔道がオリンピックに参加するようになれば、相手を倒すことに隔たった、相手を敵として殲滅するという争いの柔道になることを危惧されておられたのだろうし、そして、合気道のように、自分と戦っていけば、相手が倒れるような武道にしていきたいと望んでおられたと拝察する。

合気道は、試合は厳禁である。自分と存分に戦っていれば、他人をどうこうしようなど気にしていられないだろう。稽古相手が敵ではなく、自分の分身、協力者と思えるように、自分と真剣に戦う稽古をしていくべきだろう。