【第816回】 頭の力

年を取ってくると、合気道の摩訶不思議や奥深さがわかってきて、ますます魅了されていく。入門当時や若い頃の合気道観とは全然違ってきている。当時は、合気道とは、私がやっていたスポーツなどと比べても簡単で楽な運動だと思い、一時は別な武道に換えようかとも思ったほどである。
しかし、年を取ってきて合気道の素晴らしさがわかってきたわけである。もし、若い頃、合気道を止めていたなら、この素晴らしい教えを得る事ができなかったかと思うと、冷や汗ものである。

合気道の素晴らしさを日々、悟り、身に着けようとしているわけだが、最近、合気道の更なる難しさも実感するようになり、これは誰でも容易に会得することは難しいと思うようにもなった。
その原因の一つは、体と心・頭を上手くつかわなければならないことである。少なすぎても駄目だし、多すぎても駄目、また、バランスが崩れても駄目だということである。錬磨する技を体と心・頭を最適につかわなければならないのである。これは容易な事ではない。

体をつかい過ぎるのも良くないが、これは腕力や体力でやるということになるからである。また、心・頭をつかい過ぎるのも良くないが、頭でっかちになり、他を信じなくなり、体を軽視し、体とのコミュニケーションを上手く取れず、いい技が出来ないことになるのである。

技は体の力と頭の力・心の力で掛けるといっていいだろう。これまで体の力は研究してきているので、頭の力・心の力を研究することにする。
まず、頭の力と心の力の違いであるが、頭は論理的な理解をするのに適した場所であり、心は感情的な情を理解するのに適した場所であるので、頭の力は理解力、心の力は感受力と云えるだろう。
合気道の技を練っていく場合には、この頭の力の理解力と心の力の感受力を駆使することになるが、これが愛の武道のもとになると考える。

しかし、頭の力には毒もはらんでいるので注意が必要である。
朝日新聞の『天声人語』(2121.11.24)に、「物理学者の寺田虎彦は随筆で、頭の良さはときに科学研究の妨げになると論じていた。「頭の力」を過信するあまり、自分が考えたことと自然現象が一致しない場合に、自然の方が間違っているかのように考える恐れがあるからだ。」とあった。
この寺田虎彦の文章を読むと、多くの人が頭の力を過信しているように思えるし、また、自分にもそういうことがあったことを思い出す。その一つは、大先生の教えの、吐く息は水、引く息は火である。どう考えても、吐く息の方がエネルギーがある火で、引く息は水であるはずだと思ったし、畏れ多くも、この「吐く息は水、引く息は火」は間違いであろうと、長い間そう思おうとしていた。これは頭の力を過信したということである。
年を取って来たせいもあるが、己の頭の力を過信しないようになった。自然や宇宙は138億年昔から生まれ育っているわけで、高々50年、100年の人間の頭の力など高が知れている。自然や宇宙の営み・法則に従った方がいい。合気道はこれを稽古しているわけだから、素晴らしい。