【第815回】 箱につめこむな

合気道を精進するために、合気道の技を練っている。とりわけ基本技を何度も繰り返し稽古している。以前は、何故、同じ技を繰り返し稽古するのかよく分からなかった。それもあって、偶に目新しい技を指導者に教えて貰うと喜び、張り切ってやったものである。
初心者の頃の稽古は、その時間の先生の教えと技を覚え、真似することであった。本部道場では、日によって先生が違うし、大先生もおられたので、いろいろな先生の教えを受ける事ができた。我々の若い稽古仲間は、そのそれぞれの先生の技づかい、体づかいの真似を上手に出来たが、高齢者や他の道場で稽古をしていて偶に来た人は、自分流にしか出来なかった。また、先生によっては、その先生流にやらないと、機嫌が悪かったり、やり方が違うと注意する先生もおられた。
先輩にも教えて頂いたが、その時はその先輩の教えのようにやるように努めた。しかし、段々と先生や先輩の技づかいや体づかいが皆一様ではなく、時には相反するということがわかってくるのである。

この時点では、一人の先生や先輩についたり、その技づかいでやろうとは思わず、さらに先生や先輩を探し続けていた。
年を取って来て稽古年数も増えてくると、先生方も先輩もいなくなり、気がつけば、自分が先輩格になってしまっている。最早、先生や先輩から教わる事はできなくなったわけである。
それではどうすればいいのか、何から学べばいいのかという事になる。結論は、自分に学ぶしかないということである。
これまでの他人から学ぶ事を横の学びとすると、今度は己からの学びは縦の学びということになるだろう。十字の学びである。

ここまで長々と十字の学びまでの事を書いたが、この趣旨は、固まっては駄目で、変わらなければならないと云いたいためである。そしてそのためにどうすればいいのか、どうしては駄目なのかということなのである。
固まってしまうとは、稽古や自分の頭が、これでいいとし、もっと良くしなければならない、よく変わらなければならない等と思わない事である。前出しの例では、初めから先生はこの先生、技もこうでなければならないと決めたりすることである。

技の錬磨をして合気道の修業をしていくと、少しずつではあるが、宇宙の事、己の事が分かってくる。また、大先生の教えも実感出来るようになってくる。
例えば、最近、目にとまったのは、“箱につめるばかりでは駄目だ”(合気神髄 P.129)である。「学問というのは学校に行って何をするかというと自分の魂を開くためであり、その案内者にすぎない。ところが、現在は教師も学生もそれを箱につめるばかりで、開く間がない状態である」。
これは当然、合気道にも云える。合気道は自分の魂を開くためのものであり、その案内者であるということである。自分の魂を開くとは、宇宙の経綸を行い、造り主の御心を表に出すことであるという。
つまり、箱につめるばかりでは、自分の魂が開かないし、造り主の御心が表に出せないということであり、合気道の精進がないということになるわけである。更に、大先生は、「それは同時に自己の完成であり、それぞれの分野で立派な花を開き、実を結ぶことです」とも云われておられるから、箱を開けば自己完成につながることになるのである。

また、稽古を続けていて体感するのは、例えば、一つの技(法則)を悟り、行い、そして会得すると、必ず次の新しい技が待ち構えているのである。前の技に挑戦している間は次の技は出て来ないのである。一つの技を有難がって、後生大事にしておいては先に進めないのである。箱はつめたら空っぽにすることである。