【第813回】 赤玉、白玉、真澄の玉で技をつかう

これまで赤玉、白玉、真澄の玉を研究してきた。その研究状況は「合気道の思想と技の『第803回』『第804回』にある通りである。
しかし、読んでの通り、これはまだ不完全であった。赤玉、白玉、真澄の玉の重要性を悟ったこと、それがどのようなものであるかに気づいたのはいいのだが、真の姿と働きが見えないのである。
何故、見えないかと云うと、実際に赤玉、白玉、真澄の玉を生み、技の中でつかっていなかったからであると思う。実際につかえれば、もっと分かり易く、そして信ぴょう性があるはずだ。

しかし、これは仕方がないことである。習い事の順序であり、宿命である。
或る事を身につけるためには、初めにその或るものに気がつかなければならい。これは小さな悟りである。この悟りがなければ、先に進めないし進歩ができない。まず、悟ることが大事であり、肝心要だということである。
次に、悟ったら、それをすぐに実行する。ここまでの事が、『第803回』『第804回』に書かれていたわけである。すぐに実行して、すぐに書いた事に問題があるのだが、これも仕方がない。あそこで書かなければ、このテーマは、永遠の彼方に消えていたかもしれないのである。ここの論文は、謂うならば、備忘録でもあるのである。これはと思う事を忘れないためにも遺して置くことなのである。

そして更に、実行して反省し、また行うを繰り返すわけであるが、これによって、赤玉、白玉、真澄の玉が生まれるようになり、技につかえるようになったのである。
赤玉、白玉、真澄の玉を技につかえるようになったことで、赤玉、白玉、真澄の玉を分かった事になる。赤玉は確かに潮が盈るのを感得できるし、白玉は潮がひくを実感する。また、真澄の玉は、空気のような風の玉で、赤玉や白玉のような頑強な玉ではないが、赤玉や白玉ににない強力な力があるのが不思議である。
勿論、不完全で力不足であるから、これからも実行、反省を繰り返すことになる。それが稽古・修業であろう。

因みに、大先生は『合気神髄』の中で、「例えば、天地の真象をよく見て、自らこの真象によって悟る。悟ったらすぐに行う。行なったらすぐ反省し、という具合に順序をたてて、悟っては、反省し、行っては反省するというようにして、だんだん向上していただきたい。」( P.164)と教えておられる。

赤玉、白玉、真澄の玉が大分わかり、つくれるようになってくると、赤玉、白玉、真澄の玉の重要性が更に分かってくるし、この三つの神宝がなければ技にならないことを確信することになる。
例えば、苦労している諸手取呼吸法でも、赤玉、白玉、真澄の玉の三つを生みつかうのである。ウーの言霊で赤玉、エーで白玉、イーで真澄の玉で、体と技をつかうのである。腕力とは異質の力が働き、強力な力が生まれることが分かる。この力は、以前に書いた、剣を持つ手で体と技をつかうのに似ている。

赤玉、白玉、真澄の玉をつくるのは簡単ではないかもしれない。布斗麻邇御霊の気の形の基でつくるので、布斗麻邇御霊の気の運化を身につけなければならないし、息・気の縦横からの十字から玉をつくるためには、多少のコツが必要なようだからである。また、赤玉は布斗麻邇御霊ので円い玉であるが、白玉は、また、真澄の玉はで玉ではない。しかし、も玉(球)であることが分かる。
いずれにしても、赤玉、白玉、真澄の玉をつくることは出来るし、大いに働いてくれる。呼吸法だけではなく、一教でも、入身投げでも、すべての形(技)をこの赤玉、白玉、真澄の玉で行わなければならないはずである。今、それを研究しているが、恐らく間違いないようである。

「合気道は赤玉、白玉、真澄の玉である」と云われる。合気道は禊ぎであるし、「ミソギには、赤玉、白玉、青玉(真澄の玉)の三つの神宝が必要なのです」と云われているのである。赤玉、白玉、真澄の玉の技は禊ぎ技であり、「禊ぎ技は禊ぎそのものです。」(合気神髄 P.50)ということである。