【第813回】 身の内

前回の「縦と横の十字に」とか前々回の「肩甲骨を拡げる」で書いたように、技と体を練っていくと、次の新たなものが現れて来たようだ。勿論、これだけのお蔭ではなく、これまでのいろいろな教えが積み重なっての事である。例えば、布斗麻邇御霊の運化に合するようにならなければならないし、息、そして気がつかえるようにならなければならない。やるべき事の一つ一つの積み重ねで、その新しいものが現れたのである。
更に、新しいものが生まれるためには、はっきりとした目標をもっていなければならないと思う。目標には近い目標と遠い目標があるが、この場合は、近い方の目標である。それは“魂”である。合気道は魂の学びであると教えられているわけだが、まだ魂はよく分からないので、何とか分かろうとしていることである。大げさに言えば、ワラをも掴みたいところなのである。

魂を感じよう、つかいたいと思っているところに、上記の稽古で手が開き、胸が開くようになると、これまでにない不思議な感覚になり、これまでには無かった力が出てきたのである。特にそれを感じるのは、片手取りや諸手取の呼吸法で、己の手が相手の首や肩にのると、そこから相手が倒れるのである。これまでは、相手と接した己の手に力を込めて相手を倒していたわけだが、今度は、手に力を込めて倒すのではなく、手は動かさずして相手は自ら倒れてしまうのである。手に力をいくら込めても、大体は相手に頑張られて倒れない者だが、手を動かさずとも相手は倒れてくれるのである。気の力と考える。手の力、魄の力よりも強い力であるということにもなる。

それではどこで、どのようにして相手が倒れるようにしているかというと、胸であり、体中である。これを大先生は“身の内”と云われているのである。そして大先生は、この“身の内”を非常に重視しておられると思う。これまでは気がつかなかったが、この“身の内”と云う言葉を、『武産合気』や『合気神髄』では、何度もつかっておられるようなのである。例えば、この論文を書くに当たって見つけたものに、「人の身の内には天地の真理が宿されている」がある。天地の真理が宿るほどの身の内ということだから、身の内は大事なわけである。尚、天地の真理とは布斗麻邇御霊をはじめ、天の気、天地の呼吸などであり、それらの真理を身に着けるべく、技と体を練って稽古をしなければならないのである。従って、これらの天地の真理を身につけなければ、身の内には宿らないし、身の内の働きようもないことになる。

更に大先生は、「自分の身の内、すなわち魂のことである」と云われておられるのである。いよいよ“魂“が具体的な形で出て来てくれたわけである。これを使わせて貰わないわけにはいかない。
そこで身の内が魂であるということを実感する必要があるだろう。
そして、それを実感したのが上記の呼吸法での最後の場面での身の内の働きの感覚である。手を動かなくても身の内が自然と働き、相手が自然と倒れる感覚である。身の内が自然と働くのは気が働くことでもあるが、この働きは己の心であり、これを働かすのは自然の働き、天地の運化、つまり魂の働きであろうと考える。

片手取りや諸手取呼吸法でこの身の内の魂が働いてくれるようになると、合気道の基本の技(形)でも、同じように身の内に働いて貰う事ができるようになるようだ。そして技づかいが変わってくることになる。
これで少しは魂に近づけたようである。