【第810回】 合氣道観で

大学1,2年の頃は、あまり授業にはでずに、友人たちと「人生とは何か」「自分たちはどう生きるべきか」などの激論を喫茶店で戦わせていた。結局、誰もが賛同できる、共通の答えはでないままに終わり、その討論会も壊滅してしまったが、自分なりの答えは出した。これはいい思い出になったし、その後に生きる上で大いに役立った。そしてこれ以降も自分の人生観を探し続けることになる。

私が見つけた当時の人生観は「真善美」であった。真善美を求め、それを下地として生きていく事である。真のために学問をしたり、世の中を知らなければならない。自分は勿論、世の中も悪に向かわず、善を目指すようにしなかればならない、また、美的センスを身につけて、できるだけ美しくあろうと思った。つまり、真善美の探究や真善美の生き方こそが、吾人生観であったわけである。

大学の友人との激論が下火になる頃、偶然、合気道を知り、入門した。そして合気道を創られた植芝盛平大先生から直接、合気道とは何か、稽古の目標は何か、そのためには何をしなければならないのか等々のお話を伺うことになる。しかし、当時は、お話が難しいし、体を動かして技を覚えたい方だったので、大先生のお話にはあまり興味がなかった。今思えば、大変失礼であったと同時にもったいないことをしたと後悔している。

最近になってようやく、当時お聞きしていた大先生のお話が少し分かるようになってきた。そして、そうなると、大先生が如何に大事な事を話そうとされていたのか、為されようとされていたのかが分かってくるのである。
これまでは、自分の人生観の「真善美」を基として、話をしたり、活動をしてきたわけだが、これではまだまだ不十分であり、まだまだこれに血肉をつけ、補充しなければならないと思ったのである。

大先生も、合気道は「真善美」の探究であると云われているが、その他にもいろいろ云われておられる。例えば、合気道は、「知育徳育体育常識の涵養」であるとも云われている。つまり、「真善美」も「知育徳育体育常識の涵養」も同じことであるということであるし、また、「真善美」の真も、善も美も同じであるという事である。真は善であり、美しいのであるし、本当に美しいモノは、真であり、善であるということになる。従って、合気道でつかう技が美しくなければ、真も善もないから、相手を納得することは出来ない。

「真善美」や「知育徳育体育常識の涵養」を、過っての自分の人生観に対し、“合気道観”と云うとすると、合気道の素晴らしいのは、肉体と精神、時間と空間、ミクロとマクロ、己と他等を網羅した宇宙規模であり、時代や国や人に関係なく享受できることだと考えるわけだが、これを合気道観というのだと思う。
合気道観は宇宙規模であり、宇宙の営み・運化に合しているから、宇宙の法則に則っているはずである。例えば、

この合気道観で生き、仕事をし、そして修業をすれば、己も他も納得し、愛と喜びが生まれ、いい世の中、地上楽園への生成化育へのお手伝いが出来ると考えている。
更に、己の完成を目指したり、そして世の完成を目指している人への支援が出来れば、世の完成の更なるお手伝いができるし、そしていづれは世が完成し、地上天国が建設されると願っている。