【第809回】 積み重ね

合気道の修業に終わりはない。これまで“合気道をマスターした”とか、“合気道をすべて会得した”等と言った人はいない。大先生も、最晩年まで、“まだまだ修行じゃ”と云われておられ、修業を続けておられた。間違いなく、これからも、完全に合気道をマスターする人はいないだろう。

合気道を完全にマスター出来ない事を知りながら、修業を続けるのは、或る意味で悲劇である。部外者が見れば悲劇に見えるはずである。しかし、当人達は少しも悲劇と思っていないはずである。逆に、マスター出来ないと思うから一生懸命に修業するのである。もし、やれば合気道をマスター出来るということになれば、私なら修業を続けない。どうせ出来るんだから。出来ないから緒戦しようと思うのである。
これは何も特別なことではない。合気道だけでなく、皆が一般にやっていることである。例えば、人は死ぬことを知っていながら、一生懸命に生きている。同じ事である。因みに、もし人は死なないとなったら、何をしてもいいし、何もしなくてもいい。悲劇である。

合気道を完全にマスターすることが出来ない事を知りながら、マスターすべく修業している。マスターするとは、目指す修業の目標に到達することである。
合気道の修業で目指すものは、大きく二つあると考える。小乗と大乗、ミクロとマクロの目標である。小乗とミクロは宇宙との一体化であり、宇宙人になること。大乗とマクロは、地上天国、宇宙楽園建設である。
この目標到達のため、合気道は技を錬磨しながら精進し、その目標に近づいていくのである。合気道の技は宇宙の営みを形したモノであり、宇宙の条理や法則であるから、技を身につけ、会得することによって、心体に宇宙が入ってくることになる。心体が宇宙で満たされてくれば、宇宙と一体化し、宇宙人となるわけである。
宇宙と一体化してくるようになれば、今度は、地上天国、宇宙楽園建設のお手伝いが出来るようになるのではないかと考えている。

しかしながら、技を錬磨して目標に向かうのは容易ではない。それは稽古をしている多くが感じているはずである。相対稽古で技をつかっても、その目標に向かっているとか、目標に一歩近づいたなどと、中々感じられないと思う。
それでは、己のつかった技がその目標に向かっているとか、目標に一寸近づいたと感じられるためには、どのような稽古をすればいいかということになろう。

一言で云えば“積み重ね”であると考える。何の積み重ねかというと、教えの積み重ねということになる。そして、その教えには、師の教えと天(宇宙)の教えがある。つまり、師の教えの積み重ねと天の教えの積み重ねで稽古(修業)をしなければならないということである。

積み重ねとは、やるべき事を順序よく、一つ一つやり、身につけていく事である。やるべき事をやらなかったり、飛ばしたり、順序が違えば積み重ねにならず、ヒルコになってしまう。合気の道にならないから、行き止まりになって、先に進めない事になる。

積み重ねるモノは無数にあるはずだが、初めはその内の基本的に重要なモノ、そして徐々に繊細で微妙なモノを補充していけばいいと考える。
例えば、●最初は、体をつくり、体力や力を養成しなければならない。この土台の魄がしっかりしなければ、この上・表にくる気や魂が生まれない。先ずは、魄を鍛えるということである。
●技をつかう手足の体をしっかりするために、イクムスビの息づかいが必要になる。イーと息を吐いて手を縦に伸ばし、クーで息を引きながら手を横に拡げ、ムーで息を吐きながら手を縦に伸ばすとしっかりした、折れ曲がらない手ができる。この折れ曲がらない手で技をつかわなければならない。また、このイクムスビの息づかいができないと、次の阿吽の呼吸、そして布斗麻邇御霊の息づかいが出来ない。
また、イクムスビの息づかいでしっかりした手・体ができると、片手取りでの転換法や呼吸法が出来るようになるのである。呼吸法が上手くいくようにしたいなら、このようにやるべき事を積み重ねなければならない。

技についてもそれが言える。
●基本の抑え技の一教から四教であるが、積み重ねの土台は一教であると思う。つまり、二教を上手くつかいたければ、一教をしっかり身につけることである。更に、三教のためには二教、四教のためには三教ということになる。因みに、四教は三教の動き、三教は二教の動き、二教は一教の動きとつながっている。
●極意の基本技と考える一教は、この積み重ねの代表であると思う。やる事が沢山あるし、それが出来なければ技にならないからである。一つでも積み残しがあれば、いい技にならないのである。
積み重ねていくモノは、しっかりした心体、陰陽十字、そして布斗麻邇御霊である。鍛えた心体を陰陽十字でつかうが、先ず、手と足を陰陽につかい、そして腹を十字十字に返す。この動きを布斗麻邇御霊の気の動きの線に合わせて、順序正しく、正確にやるのである。適当にやってしまえばいい技にはならない。例えば、でしっかり天と地を結ばなければ、が働いてくれないし、が上手く働かなければ、の気(息)が生まれないのである。以下、同様に布斗麻邇御霊の一つ一つが順序よく、しっかりと働かないと、次の御霊が働くことができず、この場合の一教が上手くいかず、ヒルコになってしまうのである。

一教だけではなく、すべての技はこの積み重ねでつかわなければならないはずである。ただ、手足を振りまわすのではなく、やるべき事を一つ一つ積み重ね、すべての動作が理に合い、意味のある動きでなければならないと思う。