【第807回】 合気道の奥深さ、面白さ

誰でも、合気道をはじめるにあたっては動機があったはずである。その動機は人それぞれ違うと思うが、人が合気道を始めた動機にはあまり興味がない。それは自分自身の事を考えた場合がそうだからである。私の動機を一言で云えば“偶然”であった。いろいろな事柄が重なり合って、合気道に出会い、入門したわけで、言うなれば、自分が能動的に始めたというより、他者に導かれたと云える。

自分もそうだが、他人が合気道を続ける動機、止められない動機・理由に興味がある。夏の暑さや冬の寒さに耐え、相手に投げられたり抑えられ、時には痛められたり怪我をして稽古を続けているわけだが、自分をこのようにしごいたり、痛めたりしても、続ける必要があるということであるから、それは何かということで興味がある。

他人が合気道を続ける動機は、他人でないので分からないし、あまり聞いたこともないので、自分自身の事を書くしかない。私の場合は、合気道を始めて60年ほどになるが、それが、今ようやく分かったようである。
それを一言で云えば、「合気道の奥深さと面白さ」ということになるだろう。
実を云うと、私は入門して2年ほど経って、合気道とはこんなものかと分かったつもりになり、止めようと思った。先輩にそれをいうと、「まあ、黙って10年やってみろ」と言われたので、それではと、先輩に敬意を表して10年続けることにしたという経緯がある。続ける動機を見つける事が出来ていなかったということである。

合気道を続ける動機、止められない動機が、自分だけでなく、他人の分まで分かったように思う。それは、「合気道の奥深さと面白さ」ということであるが、これをもう少し具体的に説明する。「合気道の奥深さと面白さ」は、合気道にしかないか、合気道の稽古を通すか、又は合気道の稽古を通した方が、身につけることが出来るようになるということである。勿論、他の武道や芸能などでも可能かしれないが、合気道の方が分かり易く、身につけやすいという事である。

その奥深さと面白さとは何か、どこから来ているかと云うと、相対する二元で構成されているもの探究である。
例えば、武道であるわけだから、体を鍛え、力を養う一方、心や気持ちを養う。体と心の両方を鍛える。身心を鍛えるという事は、剛柔流にするということである。身心を柔らかくも堅固にも出来るということである。
これからでも、物質科学(肉体、腕力)と精神科学(心、精神)の両方をバランスよく養わなければならないことになるが、これがどんどん終わりなく発展していくことになる。これが奥深さであり、面白さになる。

また、合気道は、ミクロとマクロの稽古をすることである。大宇宙の運行に合して小宇宙の己の体をつかうし、更に、体の更なるミクロの部位を大宇宙の条理に合わせてつかわなければならないのである。大きな心で技や体を繊細につかわなければならない。ミクロとマクロの稽古である。

上記のモノは、空間的なモノであるが、合気道には時間的な奥深さと面白さがある。例えば、合気道では現在だけでなく、過去にも、未来にも行き来できるということである。技をつかって稽古をすると、その技を通して、過去の武人に繋がってくる。武人の、技をつくり、技をつかった気持ちが分かるようになるのである。そうすると、過去の武人に恥じないように技をつかわなければならないとか、武人が願っていたような技を身につけ、後世に伝えなければならないという気持ちになる。そして未来の後進達が技を引き継ぎ、精進するように願いながら稽古をしていくのである。ここで未来に繋がったわけである。つまり、合気道では過去・現在・未来に生きる事が出来るし、出来やすいのである。

次に、合気道は顕界と幽界に遊ぶことが出来るということである。顕界は目に見える次元の世界である。また、合気道では、顕界は物質文明の社会、競争社会などとも云い、合気道はこの顕界から脱し、目に見えない次元の世界の幽界で行わなければならないと教えている。幽界は、精神文明の世界であり、愛と合いの世界である。顕界と幽界の他に神界があるが、大先生のような名人・達人になれば、神界にも行き来できるということである。我々凡人は、先ずは幽界を行き来できるようにすればいいだろう。

このように合気道は空間でも時間でも、両極端に行き来する事が出来、遊ぶ事が出来る可能性があるということであり、他には見られない。因みに、宇宙とは時間と空間であり、合気道の修業の目標は、この宇宙との一体化である。そしてこの時間と空間の宇宙と一体化すること、合することを「合気」と云うと教わっている。
これが「合気道の奥深さと面白さ」であり、合気道を続ける動機、止められない動機であると考えている。