【第805回】 満足からやり残しのない人生へ

若い時分から宇宙の事、地球の事、そして自分自身の事に興味を持ち、本を読んだり、仲間と話し合ったり、考えてきた。学生時代に、合気道に熱中するようになったのも、その一環であったと思う。学生時代は、学生仲間と喫茶店で、“人生とは何か、どうあるべきか”をほぼ毎日数時間激論を飛ばし合っていた。だが、ほぼ一年で、結論のでないまま、行き着くところまでいったようで、この集まりも解散となった。
その頃、合気道という武道があるということを偶然知り、本部道場を訪れた。多田宏先生(後で知った)が教えておられた稽古時間だった。よく分からなかったが、面白そうなので即入門した。それから数日道場に通って稽古していると、大先生が道場にお見えになって、合気道とは、「真善美の探究」であると話され、この言葉に「これは」と、はっとしたのである。仲間と激論を交わしていた時の私の人生観は「人生とは真善美の追求である」だったからである。そして、合気道で、この私の人生観を探究できるだろうと思ったわけである。

「真善美の探究」を合気道の修業でも、そして日常生活においても心がけているつもりであるが、勿論、まだまだ不十分である。以前はそれが不十分でもあまり気にしていなかったが、最近は一寸気にするようになってきた。お迎えの時が、いつ来てもいい年齢になったからだろう。

私の人生観は「人生とは真善美の追求である」だが、それは息をしている間の事である。それではお迎えがきた際の終末人生観はどうかである。これも若い頃から考えていた。それは、「自分の人生はよかった」と思えることである。そのために、出合ったことや向き合ったモノに、最善をつくさなければならないということになる。当然、合気道もそうである。
そうすれば、お迎えが来ても、満足して逝く事ができると思っていた。

しかし、最近は、終末観が少し変わったようだ。それは、やるべきことをやったのか、やり残したものがないかということである。これは前者に比べて、能動的な終末観と言えるかも知れない。因みに、前者は受動的終末観と言えるだろう。

年を取ってくると、それまで気にも留めなかった事や、分からなかった事などが見えてくる。お迎えが近づくが、いい面もあるということである。ネガティブならお迎えが気になるだろうが、ポジティブならこんな素晴らしいことはないと思うはずである。
例えば、真善美である。合気道の技でも、日常の立ち振る舞いでも、素晴らしく見えるのは、真善美が充満しているからである。
また、真に美しければ、美があるのは当然であるが、そこには真と善があるということである。何故ならば、もし、真が欠けたとしても、善が欠けたとしても美は無いからである。つまり、真善美は一体であり、三つの面があるということになるだろう。
また、己に真善美があるのかないのか、どれだけ備わっているのかをどのようにすれば分かるのかという疑問を持つだろう。
最もそれが分かりのが、合気道であろう。己のつかう技で己の真善美の程度が分かる。一寸、話の筋が外れてしまった。

これからは、受動的満足終末観ではなく、やるべき事、やりたい事を整理して、そのやり残しが無いようにしなければならないと願っている。