【第805回】 合気道の四聖典

これまで『武産合気』『合気神髄』を合気道の聖典として読み続けている。この両聖典が合気道に不可欠であり、ここに書いてある教えが分からなければ合気道は会得できないし、分かれば合気道も会得できると思ったからである。
はじめはほとんど分からなかった。文章が意味する事は勿論、言葉も単語も理解できなかった。しかし、繰り返し々々読み続けていると、毎回、分かる箇所が少しづつ増えて来て、今では大分わかるようになってきた。しかし、完全に理解することは出来そうもないので、修業の最後まで読み続けることになるだろう。この意味でも聖典なのである。

この両聖典の教えが分かり出すと、いろいろな事が分かってくる。
一つは、この『武産合気』『合気神髄』は、真の合気道のための大先生の教えである事であるということである。真の合気道を会得するために、どのように修業しなければならないのか、合気道は何故、真の合気道にならなければならないのか等々が記されている。つまり、これまでの合気道とは違う合気道について書いてあるのである。
次に分かった事は、この両聖典が分かりづらいのは、合気道と真の合気道の区別ができないからであるということである。真の合気道の教えの両聖典を、合気道の教えとして読むから分からないのである。この両聖典は、目に見えない次元、幽界の次元、宇宙と一体化、魂の学びのための合気道、要は、真の合気道の教えなのである。
三つ目は、前述にある、魄の稽古を脱出し、幽界の稽古の次元、魂の学びの次元の稽古に入っていくと両聖典の意味する教えが分かってくるということである。従って、魄の稽古の次元では理解出来ないということになるわけである。換言すれば、この両聖典が分かる程度に、魂の稽古の次元に進んでいるということである。
四つ目は、『武産合気』『合気神髄』が分かるためには、『合気道』『合気道技法』を勉強し、身につけなければならないということである。『合気道』『合気道技法』が『武産合気』『合気神髄』の土台となるということである。技で云えば、魄を土台にして魂を上・表にし、表裏一体となるということである。

両聖典を読む際、誰もが期待するのは、どうすればいい技をつかい、強力な力を出し、相手を投げたり制する事が出来るようになるかということであろう。しかし、この両聖典には、それはほとんど書かれていない。そして「フトマニ古事記によって、技を生み出していかなければなりません」等と書いてあるのである。こんなのを見たらお手上げであり、読むことを諦めることになるわけである。

それでは真の合気道と対照にある合気道の教えの聖典はないかと云うと、あるのである。それが『合気道』『合気道技法』である。これには合気道の技(形)、そのつかい方、姿勢、動き、体のつくり方等々が十分説明されている。著者は二代目植芝吉祥丸道主であり、初代植芝盛平道主が監修されておられるので完璧なものである。合気道を稽古する者は、この聖典に従って稽古しなければならない。大先生が監修されたという事は、これは大先生の教えであり、合気道にとっての大事であるという事になる。大先生は、『武産合気』『合気神髄』の中でも、魄は大事であるとよく言われておられる。思い出したが、普段、物事を褒めたりされなかった有川定輝先生が、この両書はいいから読まなければならないと、私に云われた。

それでは、この『合気道』『合気道技法』は、『武産合気』『合気神髄』と何が大きく違うのかということになる。それは、『武産合気』『合気神髄』の対照である。つまり、『武産合気』『合気神髄』の、目に見えない次元、幽界の次元、宇宙と一体化、魂の学びのための合気道の教えに対し、目に見える次元、顕界の次元、物質的・肉体的、魄の稽古のための教えであると思う。
従って、まだ、魄の稽古の段階にある稽古人にとって、『合気道』『合気道技法』は、分かり易く、誰でも理解できることになるわけである。
これに対して、『武産合気』『合気神髄』は、ある次元まで行かないと理解出来ないということである。

いづれにしても、この『合気道』『合気道技法』と『武産合気』『合気神髄』は、合気道を学び、修業する者の聖典である。『合気道』『合気道技法』の教えを身につけ、そして『合気道技法』と『武産合気』を研究し、この聖典の教えを表裏一体にして進んでいく事である。