【第802回】 禊ぎの真意義

これまで、合気道は禊であると教えられているように修業をしてきた。確かに、人の肉体と精神はそれまで生きてきて溜まってしまった不用なカスが溜まっており、そのカスが合気道の技をつかう際や日常生活で邪魔をしているので、そのカスを除去する必要がある。その物質的および精神的なカスを取り除くのが禊ぎであり、その最良な方法が合気道であるということである。
合気道を稽古すれば、汗をかいて不純物を排除し、酸素を取り入れて新陳代謝をよくし、筋肉や関節にこびりついているカスを除去し、また、頭にへばりついている悩みや迷いなどのカスを吹き飛ばし、すっきりした頭にしてくれる。
これは稽古人の誰でも、意識したり、意識せずにやっている。カスが取れるのは誰にとっても気持ちがいいものであるから、稽古を続けることになる。

勿論、禊ぎは合気道の専売特許ではない。人は禊ぎを無意識のうちにやってもいる。大先生はそれを、「深呼吸をして血行をよくし、血液のかすをとる、これもみそぎである。祈りの言葉も又祈り言によって気のかすが取れるからみそぎである。」(武産合気 P.86)と言われている。

しかし、大先生が、「合気道は禊である」と教えておられるのは、もっと深い意味があるように思う。上記のような、誰でも、いつでも、そして無意識のうちにやる禊ぎとは違う禊であるはずである。大先生は意味のないことは言われない。合気道にして出来る、真の禊きであるはずである。

その答えは、「宇内のすべての運化にもとづいて稽古を続行しなければならない。これがみそぎの真意義である。」(武産合気p.101)である。
只、体を動かして汗をかけばいいということではなく、体も息も宇宙の営みに合わせてつかわなければならないということである。つまり、布斗麻邇御霊の運化に従って、柔軟運動をし、技をつかい、剣をつかうということである。これでやるのなら、独りでやろうが、相対稽古でやろうが真の禊ぎということになるわけである。

宇内の運化にもとづいて稽古をすることが禊の真の意義であり、その真意義の禊でやるのが合気道であるということである。