【第801回】 『土偶を読む』を読む

学校の勉強はあまりやらなかったが、自分がやるべき・知るべきと思う事はやってきた。しかし、まだまだやるべき事・知らなければならない事はあるわけだが、その一つに縄文時代がある。縄文時代は1万4千年と、平安時代の400年や江戸時代の250年等と桁違いの長期間時代であったわけだから、平安時代、江戸時代や他の時代よりも、今の日本に大きな影響を与えたはずなのに、それがほとんど無いことである。縄文時代も人は生活していたわけだから、文化も文明もあったはずであるがほとんど分かっていない。が、何かが今に繋がっていると感じている。

そんな時、『土偶を読む』(竹倉史人著 晶文社)に出会った。そしてこの本によって、何故、縄文時代の事が分からないのかが少しわかってきた。
その最大の理由は文字が無かったことに尽きる。縄文人が文字をつかっていれば、必ず彼らの生活、思想を残してくれたはずである。しかし言葉はあったはずだし、言葉もそうとう高度で洗練されていたと考える。万葉集の歌や古事記の神話を読めばわかる。言葉はあったが、それを記す文字がなかったのである。文化・文明があったものの文字がなかったのである。
この書で竹倉先生は、「神話を持たない民族は存在しない。神話は単なる創作物ではなく、世界認知そのものであるからだ。人間として世界を認知する限り、そこには必然的に神話が生まれる。したがって、縄文人が神話を保有していたことは確実である。しかし、縄文人は文字を使用しなかった。つまり縄文人の神話は文字記録として残っていないのである。」と言っているのである。

この書『土偶を読む』のメインテーマは、「土偶は当時の縄文人が食べていた植物および貝類をかたどったフィギュアである」ということである。これまでは、土偶の正体は、妊娠女性説や地母神説、遮光器をつけた土偶(遮光器土偶)等と言われており、全く異なる解釈である。
この新しい土偶の正体の解釈に興味を持ったのは、合気道の正体と類似していると思ったからであろう。つまり、見えるモノだけでモノを見ると誤ってしまうので、目に見えないモノも観なければならないということである。
竹倉先生は、これまでのハート形土偶をオニグルミ、中空土偶をシバクリ、推塚土偶をハマグリ、みみずく土偶をイタボガキ、星形土偶をオオツタノハ、縄文のビーナスをトチノミ、刺突文土偶をヒエ、遮光器土偶をサトイモをフィギュア化したものであると言われているのである。先生は、縄文人達が食べ物に感謝や願いを込めて作成したのが土偶であると言われているのである。これまでは土偶を表面的な形で見ていたのを、その形に表れた内面を見たのである。
私もこの説に納得である。これまで分からなかった土偶が身近なものになってきたし、縄文人の生き方、考え方の一端を知ったようである。また、縄文人とつながっているようにも感じるようになった。

何故、土偶がこれまで妊娠女性であるとか、地母神であるとかと見られてきたかを竹倉先生は、「私はここに近代社会を牽引してきたモダニティ精神の限界とその歪さを感じ取らざるを得ない。学問の縦割り化とタコツボ化、そして感性の抑圧、女性性の排除・・・。新しい時代へ向けて社会に変化が生まれつつある一方で、官僚化したアカデミズムによる「知性の矮小化」はいまだ進行中なのではないかと私は感じている。そして、その対極にあり続けたものの象徴が縄文土器だったのではないかとも。・・・とまれ、職業として分業化された「細切れの知性」では、土偶が体現する“全体性”にはアクセスできなかったのである。

それではどうすれば土偶の真の姿が見えるための全体性にアクセスできるようになるのか、そのためにはどうすればいいかを竹倉先生は、「この“全体性”は身体性と精神性を統合する生命の摂理そのものであり、この地球上でわれわれ人間が環境世界と調和して生きるために不可欠なものである。土偶を生み出した縄文人たちが数々の自然災害や気候変動を生き抜いてきたことを思えば、それは“滅びの道”を回避する実践的な知恵の象徴でもある。われわれがこの“全体性”にアクセスできないとすれば、それはわれわれの知性が劣化し、危機に瀕していることを意味する。その最大の原因は、近代になって、われわれが自らを“脱魔術化”した存在であると考えるようになった点にある。これはまったくの誤認ある。われわれは気づいていないだけで、われわれは縄文人たちが呪述的であるのと同じくらい呪述的存在である。そして依然として、われわれは神話的世界に生きている。」と言われている。

確かに、合気道も神話的世界に生きなければならない。フトマニ古事記である。また、その他でも多くの点で合気道の教えと符合する。
合気道を修業していく上で大いに教えられ、大いに勉強になった。