【第800回】 技を生み出すために

合気道は、合気道の技を練って精進していく。はじめの内は、技を練るということなど分からないし、気にもとめないものである。形と技の区別はつかず、形を技と思って稽古をするものである。そして、この誤解は結構長く続くようで、人によっては最後まで形と技の相違がわからなかったり、区別せずに終わってしまうようだ。その弊害の一例は、形で相手を投げたり抑えようとすることである。形で人は倒せないし、決める事は出来ないのである。これは武道界の常識である。

しかし、長年、合気道の修業を続けていくと分かってくることになるのだが、実は、結局のところ、形と技は同じになるのである。これも合気道のパラドックスの一つである。
つまり、修業によって、技が身に付いてくると、形が技で構成されるようになっていくからである。謂わば、技が形になったものが“形”であり、形のすべてが技であるということである。例えば、一教は、無限に近いほど数多くの技で構成されているということである。従って、技をしっかりと身につけなければ、一教でも、入身投げでも、形に技が入っていないわけだから、形が悪いし、美しくないし、強そうでもないし、説得力もないということになる。

技とは宇宙の営みを形にしたものであるから、宇宙の営みを身につけなければならない。そのためにはどのような稽古をしなければならないかというと、大先生は、「フトマニ古事記によって、技を生み出していかなければなりません。」と教えておられる。容易ではないが、この教えに挑戦して稽古をし、論文にも書いてきた。しかし、又、新たな課題が出てきた。

合気道の課題や問題の多くは、パラドックスであることである。合気道でのパラドックスには大分慣れて来たので驚かないが、慣れていないと頭を抱えることになるだろう。
今回のそのパラドックスの課題・問題は、技は生むモノではなく、生まれるモノでなければならないということである。
これまでは、陰陽十字や円をつかって技を生み、技を掛けていたわけだが、このような人為的な技ではなく、技がこちらが意識して生まなくとも、自然と生まれるようにしなければならないということなのである。
技を生むのではなく、技が生まれるということを、大先生は「技はその(宇宙の営みの霊波)ひびきの中に生まれるのです」「技は動作の上に気を練り気によって生まれる。」と教えておられる。

大先生の教えに従って、技が生まれるようにしなければならないわけだが、それを技の稽古でどうすればいいのかということになろう。やっていくと容易でない事が分かるが、これが少し出来るようになると、これまでとは違った、威力がある、己も相手も納得する技であることを感得する。そしてまた、これが合気道の技であると実感することが出来るようになるのである。

合気道の技が生まれるためには、やるべき事をしっかりとやらなければならない。例えば、技は「フトマニ古事記」の布斗麻邇御霊とアオウエイの五声(言霊)によって生まれるようにしなければならないと思う。そしてこの御霊を正確に、大事に運化させなければならない。一つの御霊でも疎かにすると、次からの御霊が働いてくれないので、技が生まれないことになるのである。例えば、最初の天之御中主の神の御霊をアーで生み出すが、しっかりとアーを発しないと、天、そして地と結ぶ事ができないし、力(気)も出ない。また、次のオーでの高皇産霊神・神皇産霊神が地に足がしっかりと着かないし、その為、伊邪那岐神、伊邪那美神の御霊も生まれない事になってしまうのである。

アー、オーをしっかり発し、天と地をしっかり結ぶと同時に、己の体を気で満たし、しっかりした体をつくらなければなければならない。
ここまでは縦の気の流れであるが、この後のウーで息を吐きながら、腹中の気を横、そして縦に流すが、これも腹と腹中を十分に横、そして十分に縦に返さなければならない。これらが完全に返えると、技が自然と生まれるのである。勿論、ここでの腹と腹中の横の返しが十分でないと、縦に返すことができなくなる。
そしてこの縦の気が胸に上がって、吐いていた息が引く息に変わると胸が横に開いて気が満ち、そして十分満ちると、その気が縦に上がり頭に流れる。

このように体と息(気)を縦、横、縦、横・・・とその都度完全に返していけば、気が布斗麻邇御霊の運化、つまり宇宙の営みに則って流れるから、技もそれに合して生まれることになるのである。縦横を完全に返すとは十字が出来るということであり、十字からは丸が出来るから、技も生まれることになるわけである。大先生はこれを、「丸はすべてのものを生み出す力をもっています。全部は丸によって生み出てくるのであります。」と云われておられるのである。

これからは、技が生まれるように、技を生み出していかなければならないと考えている。