【第80回】 道ができなければ稽古にならない

合気道の稽古で注意しなければならないことの一つに、ただ稽古の回数を多くやっていれば上達すると思うことである。これは半分は正しいが、半分は正しくない。初心者の時期は正しいといえるだろう。ある程度の受け身がとれるようになり、形(かた)を覚える段階までは、稽古の回数は多ければ多いほど上手くなるものだ。

しかし、合気道はこの形を覚えた段階から、本当の修行が始まるといえるだろう。この段階から「わざ」(「技」と「業」)の練磨と探求に入れるのである。合気道には、これからの世の中や人々に役立つ思想や哲学があるのだが、それが分かり、実践できるようになるためには、合気道の精妙な「わざ」ができなければならない。何故ならば、極端に言えば、合気道は「わざ」を通してしか分からず、「わざ」が出来る程度にしか、合気道が理解出来ないともいえるからである。

「わざ」が上達するのは容易ではない。繰り返してやるだけで上手くなるというものではない。何故ならば、「わざ」には道があるからである。その道とは宇宙万世一系につながっている道である。目に見えない、細い繊細な道である。よほど注意して稽古をしていかないと見えないし、気を許すと失ってしまう。

「わざ」の稽古は、まず「わざ」の道(道筋)を見つけることである。その道にある「わざ」は、相手を崩す威力があるだけではなく、自然で無駄がなく、美しく、違和感なく相手と和すものである。

しかし「わざ」は決して完璧にはできない。だが完璧に限りなく近づくことは誰にでもできる。「わざ」の稽古とは、完璧を目指し、少しでもそれに近づくべく修練することである。

道に則っていない稽古は、完璧というゴールにつながっていないので、やればやるほどその道、つまり宇宙万世一系の道から乖離していくことになる。従って間違ったことをやれば、やればやるほど駄目になることになる。

合気道とは「道」である。「道」がない、あるいは「道」ができていなければ、稽古にはならない。我欲でやらず、「道」を見つけ、「道」に沿った稽古をしたいものだ。