【第798回】 言霊の妙用

「合気とは言霊の妙用である」と大先生は教えておられる。合気の技は言霊をつかわなければならないという事である。
そこで先ず、言霊とは何かどのような働きをしてくれるのかを確認しなければならない。まだ、十分には技に活かせないが、これではないかと思えるものが見えて来たので、それを基として書くことにする。
これまで布斗麻邇御霊の気の動きに従い、アオウエイの五声「大母言」・親音で技をつかわなければならないことが分かってきたと書いた。そして更に分かってきらことは、このアオウエイは只、声を発しても布斗麻邇御霊は働いてくれないし、技にもならないということである。つまり、このアオウエイは言霊にならなければならないという事である。

そこで声と言霊の違いと言霊について見てみると、大先生はいろいろと教えて下さっていることが分かる。例えば、「言霊とは声とは違う。言霊とは腹中に赤い血のたぎる姿をいう」「天地の呼吸(布斗麻邇御霊)に合し、声と心と拍子が一致して言霊となり、一つの技となって飛び出すことで、これをさらに肉体と統一する。声と肉体と心の統一が出来てはじめて技が成り立つのである。霊体の統一ができて偉大な力を、なおさらに練り固め磨きあげていくのが合気の稽古である。」等である。
これを二代目吉祥丸道主は、「心身の極限的最高潮時におのずから人の発するコトバには、ある不思議な宇宙的生命力というか、いわゆる霊威が宿るものであり、そのさい発動する切実なる人の言行は、その言行の成就を念じつつおこなうとき、おのずから念ずるとおりの事象を招来すると信じられた。(略)「身心の極限的最高潮時におのずから人の発するコトバとは、論理をともなえばいわゆる「言」「語」として表現されるコトバの核であり、コトバ以前のひびきとしては「声」「音」「韻」としてあらわれるが、より純粋には「気」「息」というほかにいいようのない状態にまで抽象化される。そしてその「気」「息」なる極点において発せられるコトバは、人智の解析を超えるがゆえに「霊」(たま)といわざるをえない純粋直観的な悟性の対称、すなわちいわゆる霊感あるいはインスピレーションの象徴にまで止揚される。そこにおいてコトバは神とともにあり、つまり神人における一如の玄妙至境におけるコトバが「言霊」として慧悟される。」(『合気道開祖 植芝盛平伝』植芝吉祥丸著 講談社)と説明されている。
つまり、身心の極限的最高潮時に発せられる、アオウエイのアーという言、語の言葉は、それが出る前に「声」「音」「韻」のひびきであり、そしてこのひびきは、「気」「息」なる極点において発せられ、また、この「気」「息」は霊によって生み出されるということであり、このアーは、只の声や音ではなく、「気」「息」と「霊」を兼ね備えた言葉で、これを言霊ということになるだろう。
相手がしっかり掴んでいる手で、諸手取呼吸法を制することができるのは、この言霊の妙用であると思う。
これを大先生は、「業の発兆を導く血潮が言霊なり。業の発兆をおこすには、言霊の雄たけびが必要なり、浮橋に立って、言霊の雄たけびをせよとの武神の示しである。」とも教えて下さっているのである。

大先生は、アオウエイの各語の働きを、合気神髄p.77で詳しく説明されている。また、タカアマハラについても、武産合気P.65で詳しく説明されている。
更に、天の浮橋についても、「ア」は自ずから「メ」は巡る。浮橋の「ウ」は空水にして縦となす。橋の「ハ」は横となす。水火結んで縦横となす、縦横の神業。自然に起きる神技(合気神髄 P.151)と説明されている。
この三つの言葉を特に詳しく説明されているのは、これらの言葉が重要な言霊として働くということだと考える。しかし、アオウエイは、技を導く言霊であることは明白であるが、他のタカアマハラや天の浮橋は如何に言霊を生み出しても技(業)の発兆をおこすことはできないようであるから、もしかして、言霊ではないのかとも思った。
しかし、大先生は、「合気道も神楽舞もその根底にあるのは「合気」ということであり、合気とは言霊の響きによる禊の業をいうのである。」と教えておられるのである。つまり、言霊が響けば、それが禊ぎになるからそれは言霊ということになるということである。合気道の技だけに言霊が働くのではなく、神楽舞でも言霊は働くという事である。
これが合気道は禊ぎであるということなのだろう。
合気は言霊の妙用での禊ぎということである。