【第797回】 合気道は禊ぎ

これまでも合気道は禊ぎでなければならないと書いてきた。これは大先生が強調されておられる教えのひとつである。
はじめは、誰でもそうだが、無意識のうちに自分の身体と心を禊いでいるものである。相対稽古で汗をかき、体のカス、気のカスを取り除き、また、集中して稽古すればその間、世俗のことを忘れ、精神の禊ぎにもなっている。だから、稽古をした後の稽古人達の顔は満足し、輝いているわけである。多くの稽古人は、この肉体的、精神的な禊ぎによる満足感を求めて通ってきているはずである。

これを初期の禊ぎ、基本的な禊ぎ、禊ぎの土台と考える。ということは次の段階の禊ぎがあるということである。
稽古人は合気道の精進をすべく稽古をしているわけだから、更なる精進をするための禊ぎが必要になる。大先生は、「みそぎをしなければものは生まれて来ない。」(武産合気P.58)と教えておられる。ここの“もの”を“技”に置き換えれば、禊をしなければ、技は生まれないということになるからである。
また、大先生は、「武産合気(真の合気道)は、悉く神代からのみそぎの技を集めたもので、合気道は禊の技である」とも言われておられるのである。

ここで、禊ぎの技をつかうために、どのように禊ぎをすればいいのかということが問題になる。
大先生は、「幽界はミソギの場である」と云われている。ということは、禊ぎは幽界で行えということになる。身に見える俗世の顕界ではなく、目に見えない世界の幽界で行うということになる。つまり、禊ぎである合気道の稽古は幽界でやらなければならないということである。

次に問題になる事は、禊ぎの合気道をするために、どうすれば幽界に入っていけるかということである。
それは天と地の呼吸に己の呼吸を合わせ、天地人と一体となる事であると思う。アーで己の息を天と結び、オーで地と結び、天地と一体となるのである。天地と一体となると、会社や家庭などの世俗の事は消えていき、宇宙の中に入って行く。そして宇宙の運化・営みと同調しなければならないと思うのである。最早、相手をどうこうしようとするのではなく、フトマニノミタマとの交流・対話になる。それは善くない、正しくない、それは美しくないからこうした方がいい等と教えてくれるのである。この声に耳を傾け、精進していく合気道が禊ぎの合気道であり、禊ぎの技であると考えている。

尚、合気道の技づかい、体づかいに於いて、先述の天の呼吸と結ぶ場合のアーの時は、体が開き、また、手も開き上がり、オーで体が閉じ、開いた手も閉じ下がる。これで天地の呼吸と結び一体化して幽界に入るわけだが、これから技に入らないと、幽界に入いれないせいか、力に頼る魄の稽古、顕界の稽古になってしまう事になる。
慣れてくれば、アーやオーと声を発せずに、手の開き・上げと閉じ・下ろしの動作で幽界に入って、ウーエーイーと技をつかえばいい。これは些細なことのようだが、非常に意味があると思う。合気道の稽古の他にも、日常でも使われているのである。例えば、お参りである。神社でお参りする際、誰もが、顕界から幽界に入って、幽界の神様とお話ししたり、お願いするだろう。その際、両手を上げて、そして手を開き、手を閉めて手を叩くが、この動作が幽界に入るための動作になるわけである。このように柏手にも意味があるから、千数百年も継承されているわけである。