【第796回】 手は腹でつかう

合気道の稽古法はよくできているといつも感心させられる。試合がないので、相手をやっつけるための稽古ではないし、相手が強かろうが、下手な初心者であろうが、一つの技を右左、表裏の四回づつ平等に掛け合い、技を掛けたら、今度は受けを取ると真から平等であることである。こんな平等は他には見当たらない。
さらに、合気道では無意識のうちにいい稽古をしていることが分かる。こちらが、まだ未熟で力がなければ、相手もそれなりの力で対応しているということである。技も満足に身についていない者がそこそこの技ができるのはそのためである。これはどの稽古人も体験していることなので理解できるだろう。
しかし、これとは逆に、こちらに力がついてくると相手もそれ相応に力を入れてくるのである。この力はやっつけようとか、つぶしてやろうとか意識して入れているのではなく、無意識に出している力である。勿論、時としてやっつけようと意識し、争いになる事もあるが、基はといえば、相手にやられないように等、相手の力に対応した結果である。

ある程度力が出るようになると、相手も力を込めてくるから、これまでのような技づかい、体づかいでは相手の力を制する事ができなくなる。多くの稽古人はここで壁にぶつかり苦労することになる。例えば、それが顕著に表れるのは諸手取呼吸法である。

この壁を突破するためにはやるべきことをやらなければならない。理合いの稽古をすることである。科学することである。ただ、無暗に稽古をしても解決しない。多くの稽古人は、ここを誤解しているように見える。
まず、これまで書いてきたように、①手先と腹を結び、腹で手をつかわなければならない。それまでは手を先につかっていたので、手と腹のつながりはなく、腹からの大きな力がつかえなかったわけである。②さらにこの手と腹を結んだ力を増大するためには、足と手を左右陰陽につかうことである。③そして、手と足、そして腹を十字々々とつかうのである。

これで相当な力が出るわけだが、相手もこの力に相応する力を出してくるようになるものである。先述のように、人は相手に対応するからである。故に、次の理を見つけ、身につけなければならない事になる。
具体的なやり方を簡単に説明すると、縦と横をこれまで以上にしっかりやることである。これまで以上に、息と気で手、足、体幹を横に開き、そして縦に伸ばすのである。手は鋼鉄のように強靱になり、そして足も体幹も気で満ちる。布斗麻邇御霊の伊邪那岐と伊邪那美の横と縦の息づかいと“う”の言霊から十字ができ、そして“気”が生まれるという事である。
つまり、これまでの魄の力から気の力、天地の力をつかうことになるわけである。

諸手取呼吸法をこれでやれば相当な力が出るはずである。そして気を感じるようにもなる。諸手取呼吸法は、手が鋼鉄のごとくしっかりし、折れ曲がらず、手先まで腰腹からの気が伝わり、腹で手先を操作することになる。だから強力な力が出ることが分かる。もし、手先を先に動かしてしまえば、腹との結びが切れてしまい、手先の魄の力でやることになり、相手を納得させるような力にならない。

この「手を腹でつかう」をすべての技でつかうのである。これまでの技づかい、力の質、体の感覚、相手の反応、相手とくっつく引力等々の違いが明瞭になるはずである。また、大先生が云われていた、指一本でも相手を自由に出来るということ等も実感出来るだろう。
大先生の技づかいや立ち振る舞いの美しさ、素晴らしさはこの「手を腹でつかう」にもあった事がわかる。つまり、稽古での技づかいだけではなく、この法則は道場の外でも有効であるということになる。
この道場外の例をひとつ書く。これまでどういうことか分からなかったが、今、分かった。それは、過って有川定輝先生と稽古が終わって食事をした時である。先生は、机の上にあるご自分のビールの入ったグラスを、手を水平につかい、まるでロボットの手のようにして掴まれ、飲まれ、そして机の上に戻したのである。今思えば、これは、まさしく「手を腹をつかって」の動作だったのである。しかし、何故、先生はそれをその時やられたのかは分からない。でも答えは次の二つの内のどちらかであるはずである。ご自身の研究だったか、または出来損ないの我々にこれは大事だとの教えだったかである。いずれにしても、有川先生からは多くの事を教わっていることを改めて知る次第である。