【第795回】 見えないモノも信じる

年を取って来て変わった事は沢山ある。肉体的な衰えなどはその典型であるが、それは生物学的に当然であるから、以前から予想してきたことであり、大した変わりではない。変わったなと思い、これが年を取るという事かと思わされ、感動するのは心の世界、見えない世界に於いてである。
若い頃は、お金や名声や財などを求めて生きてきた。合気道で云う、物質文明に生きていたわけである。
物質文明に生きるということは、目に見えるモノを信じ、見えないモノを信じないということであろう。確かに、若い頃は己の目で見えないモノは信じることが出来なかった。日常生活に於いても、例えば、神様や仏さま、幽霊、人の心等々信じる事が出来なかったと思う。
また、合気道でも、大先生がお話になっていた、神様や神界・幽界、気や魂等々を信じる事が出来なかったし、興味がなかった。興味があったのは、技を覚え、強くなる事であった。

年を取って来て、やっと大先生のお話の重要性や、これらの見えない神様や神界・幽界、気や魂の存在と重要さが分かってきた。そして見えないモノの重要さを覚り、価値を置くようになる。技も目に見える形を追うのでは無く、目には見えない気の動き、腹中の息づかいを捉えて、形を整えていくようになる。

見えないモノが見えるようになると、大先生や有川定輝先生の写真やイメージからも教えを受けられるようになる。表面的な動きや態勢だけでなく、心の動き、気の運化などが実感され、つまり、見えてくるようになるのである。しかし、見えないモノが見えたからと云って、それを他人、特に若い人に伝えるのは難しい。若い人は見える形でないと分からないし、信じないからである。
合気道の聖典である『武産合気』『合気神髄』が分からないのも、ここに理由があると思う。また、これと関係して、過っての大先生のお話が分からなかった事も同じである。今なら、大先生のお話を真剣にお聞きしたいと思うし、見えないモノを信じて、多くの教えを身につけることができるだろうと思うが、あとの祭りである。

年を取って来て、見えないモノを信じるようになると書いたが、正確な言い方をすれば、見えないモノを否定しないということである。
自分が見えなくとも 他人や能力を備えた人が見えたというなら、それを否定するのではなく、信じるということである。
しかし、私はまだそれほど出来ていないので、自分に見えないモノは基本的に半分信じ、半分疑う事にしている。つまり、100%の肯定も、100%の否定でもないということである。後は、自分でそれを調べ、確認し、その%を変えていくのである。例えば、今日現在で、神様の%はこれまでと同じ信じる50%、疑い50%というところであるが、気の存在と働きは90%、魂は70%肯定(信じる)するようになった。

もう一つ変わってきていることに、見えないモノにどんどん興味をもつようになっていくことである。逆に、目に見えるモノへの興味はどんどん減っているようである。特に、興味のあるのは“心”である。人も動植物も心である。人を見るにも心をみるようになる。愛の心の人や振る舞い、活動には涙が出る。清い心の子供たちをみると、この子たちのためにいい世の中を残さなければならないと思う。
また、野菜、果物、パック食品、コーヒー豆、家具、衣類、住居、また、新聞、テレビの番組等々の目につくすべてのものは、つくった人たちの心を見ようとしているようだ。また、豪邸でも建物よりもそこに住んでいる人、それもその人の心に興味がある。車も服装も同じである。

最近買って読んでいる本は『山怪』(田中康弘 ヤマケイ文庫)である。主題は、「日本の山には何かがいる。生物なのか非生物なのか、固体なのか気体なのか、見えるのか見えないのか。まったくもってはっきりとはしないが、何かがいる。敢えてその名を問われれば、山怪とこたえるしかないのである。」
見えないモノを見たい、信じよう、もっと興味をもとうとしているということなのだろう。