【第795回】 桃の実と地ひきの石

大先生は、古事記は法典であり、合気は古事記から多くの事、重要な事を学ぶ事ができると云われている。つまり、「合気は古典の古事記の実行」であり、「古事記の宇宙の経綸の御教えに、神習いまして日々、練磨していくことです」ということである。
これまで古事記の実行を宇宙の経綸の教えに従ってやってきた。布斗麻邇御霊の運化に習って技を練って来たわけである。
ここでまず、古事記と布斗麻邇御霊にどのような関係があるのかを確認したいと思う。布斗麻邇御霊は七つの御霊であるが、これらの御霊やその働きを古事記の文や言葉で解説していることである。例えば、最初の天之御中主神御霊は、「古事記曰 天地初発之時於高天原成神御名天之御中主神云々」で始まり、「この御霊の正中のしるしは天地未生のなり。この神の御名のアメというアは空中の霊にして・・・」と続く。他の御霊も同様である。古事記と布斗麻邇御霊は天地創造と完成のための営み、運化、そして天地の気を知ることができるという意味で同類であり、それぞれの表現は違うが、意味するところは同じということだろう。
これが古事記と布斗麻邇御霊が一緒となり、大先生が云われるフトマニ古事記ではないかと思う。

このように古事記は布斗麻邇御霊と共に、天地創造という大局的な観点から見ており、これを合気道で学んでいくわけであるが、これを局所的な観点からも学ぶ事ができるし、学ばなければならないと思う。つまり、古事記は大局的だけではなく小局的な教えもあるということであり、それが法典であると云われる所以でもあるように思う。

今回は、その一つの例として、古事記でよく知られる箇所の桃の実と地(千)ひきの石(いわ)を例にあげよう。
古事記では次の様に語られている。「黄泉国に逝かれたイザナミノ命に会いに行かれたイザナギノ命は、イザナミノ命の姿を見られると、その姿のすさまじさに驚き、逃げ還られた時イザナミノ命はその姿を見られたことを憤り、軍勢をもって追わせた。イザナキノ命はかづらを投げ、櫛をなげ、剣を後手にふって懸命に逃げて来られたのを、なお追って黄泉国と現界の境に来かかった、その時イザナギノ命が桃の実を三つとって投げ打たれると、黄泉国の軍勢は悉く逃げてしまった。」
「二人の命は塞がれた石(地ひきのいわをへだてて黄泉国と現界とに各々立った。そして一日にあなたの国の人を千人殺しますと、イザナミノ命がいわれると、イザナギノ命は、あなたが千人殺すなら、私は千五百の産屋をたてようとそれに答えていわれた。」

ここには合気道の修業、技づかいにおいて二つの教えのポイントがあると思う。
一つは、イザナギノ命が桃の実を三つとって投げ打たれると黄泉国の軍勢が逃げていったことである。
『武産合気』では次のようにある。
「これが産屋である。また黄泉(幽界)の軍勢を追いはらった桃の実が合気道であるということを植芝先生から筆記者はききました。」(武産合気P.28)
この桃の実は、布斗麻邇御霊で技と体をつかって稽古をしていくことであると感得できる。腹中で感得するのである。布斗麻邇御霊のである。三つ投げ打った三つはこの三つの御霊(気)であると考える。イザナギノ命とイザナミノ命が、布斗麻邇御霊で共に協力して天地創造に携われた御霊である。同じ御霊が創造と防御・攻撃としてつかわれたわけである。
桃の実を投げ打たれたのは、黄泉国と現界の境に来かかったところであるから、まだ、黄泉の国の幽界のことである。吐く息をつかわなければならない。

二つ目は、地ひきの石(いわ)である。これはイザナギノ命が幽界から顕界に出ての事である。これを布斗麻邇御霊で現わすと、からに成るということである。吐く息から引く息に、幽界から顕界に変わるという事である。イザナギノ命は、地ひきの石(いわ)で黄泉国と現界を遮蔽し現界に復帰する事ができたわけである。
地ひきの石(いわ)の教えは、この岩で幽界(黄泉国)の邪霊をしっかり防がなければならないという事である。つまり、地ひきの石(いわ)とは、桃の実が腹中であるのに対し、胸・胸中であると考える。
技をつかう際、この地ひきの石がしっかりしていないと、技にならない。また、剣を振る際もこの地ひきの石が重要な役割を果たす。

合気は桃の実の養成であるといわれるように、桃の実の腹を鍛える事、そして地ひきの石の胸・胸中を鍛える事が大事であると実感する。