【第794回】 呼吸法が出来る程度に

呼吸法の重要性を改めて認識した。これまでも呼吸法は大事な稽古法であると思っていたし、稽古もしてきた。時間があり、相手がいれば、出来るだけやっていた。
これまでも書いてきたが、呼吸法は大先生が居られる頃から、ほとんどの先生の稽古時間のはじめにやられていた。過っては準備体操などやらなかったので、準備体操のかわりに呼吸法はやられるものと思ったほどである。片手取り呼吸法や諸手取呼吸法で始まり、坐技呼吸法で終わるのが一般的だった。故に、どの先生、どの稽古時間も呼吸法は行われていたわけである。如何に呼吸法が大事なのかが分かる。

これも書いたことであるが、有川定輝先生はこの呼吸法の稽古を始めや最後にすることを晩年まで続けておられた。先生は呼吸法を重視されておられたのである。
何故、呼吸法を重視されるのかと思って自分でもいろいろ考えてはいた。一つは、諸手取呼吸法のように、一本の片手を二本の手で掴ませるわけだから腕力がつくことである。二つ目は、そのように二本の手で持たせた一本の手をつかうためには腰腹と結んで、腰腹でその手をつかわなければならないことである。つまり、腰腹が鍛えられることである。また、後で段々分かってくるわけだが、このためには、手と足と腰腹を陰陽十字につかう事が分かってくるのである。これが三つ目である。

或る時、有川先生は、「技は呼吸法が出来る程度にしか出来ない」と云われたのである。そしてその後もこの言葉を度々お聞きすることになるのである。そこで周りの稽古人の稽古を見てみると、確かに、呼吸法が不味いのは技も下手であるし、呼吸法の美味さ、不味さとほぼ比例して、技の美味さ、不味さが決まっているようだということが分かった。
そこでそれまで以上に呼吸法を研究し、稽古をするようになったわけである。
そして呼吸法が少し上手くできるようになると、技も少しよくなるという実感ももったのである。

ここまではこれまでの話しであり、ここからが今回のテーマになる。有川先生の「技は呼吸法が出来る程度にしか出来ない」の更なる深い意味である。

これまでの呼吸法は言うなれば力の稽古、魄の稽古であったと思う。勿論、これも必要であるし、必須である。しっかりした手足、腰、力が出る腕をつくり、腰腹で手をつかい、陰陽十字に動ける体をつくるからである。
しかし、呼吸法とは呼吸力養成法であると考えているわけだが、これでは呼吸力の養成には限界を感じるのである。どんなに力んでも、息込んでもそれほど大きな力は出ないし、自由に使えない。これは呼吸力ではないので、呼吸力養成法になっていないのである。

呼吸力とはこれだと自覚できるようになった。大先生の言われる、フトマニ古事記とアオウエイの親音の実行によってである。これは既に何度も説明しているので省略する。
このフトマニ古事記の布斗麻邇御霊の営みに合わせて、アオウエイの気と息で技を生み出していく。どの技(形)もこれでやるのであるが、やりやすいモノとやり難いモノがある。そして最もやり易いモノ、つまり稽古をしやすいモノこそ、呼吸法であると思うのである。呼吸法によって、腹中の十字から気と力が生じ、それが胸中に上がって更なる縦横の十字を生み、手先に強力な力を生じさせるのである。この力こそ気の力であると感得する。また、この力こそ呼吸力であると感じるのである。また、この呼吸力は練れば練るほど強力になると感じるのである。

この呼吸法の稽古で一般的なのは片手取り呼吸法である。最もやり易いし、他の技づかいにも汎用性がある故に、一般的となっていると考える。汎用性があるから値打ちがあることにもなる。実際、片手取り呼吸法は他の呼吸法や技(一教、四方投げなど)と比べても、布斗麻邇御霊の営みとアオウエイの声が明確に働き、その結果がはっきり分かる。布斗麻邇御霊の営みとアオウエイの声の基本稽古の土台でもあると考える。勿論、諸手取呼吸法、後ろ両手取呼吸法、坐技呼吸法などの呼吸法も、片手取り呼吸法に準ずると思う。

従って、技はこの土台である片手取り呼吸法に準じてつかえばいいという事になる。片手取り四方投げでも、正面打ち一教でも、この片手取り呼吸法を基盤としてやるのである。片手取り呼吸法で手先から力や気が出るよう、天地の力が働くようにするのである。そうすれば、呼吸法の出来る程度に技がつかえるようになるわけである。
それが上手くいくためにも、まずは呼吸法、特に、片手取り呼吸法を錬磨しなければならないと考える。