【第792回】 合気の技は剣の動きで

合気道の技を稽古している時、布斗麻邇御霊の動きに従ってやるようにしている。これまで分からなかったり、出来なかった事が大分わかってきた。
布斗麻邇御霊のお蔭で息、気、火と水等の動きや働きはこれで分かってきたし、宇宙の営みを感得できるようである。また、息の縦横の十字から気を生み、働かすことも分かってきた。
しかしながら布斗麻邇御霊には何かが欠けているように思う。つまり、布斗麻邇御霊の動きだけでは技が上手くつかえないのである。勿論、布斗麻邇御霊は技に不可欠である。つまり必要条件ではあるが十分条件ではないということである。

布斗麻邇御霊の動きや働きに陰陽の教えは無いように思う。合気道の基本の動きは陰陽十字であるが、陰陽の動きの教えは布斗麻邇御霊にないと見る。
合気道の技は陰陽十字が基本であると教わってきていたので、これまでは、意識して左右の足や手を右左と規則正しく陰陽でつかうように心がけてきた。これである程度上手く、気持ちよく陰陽に体と技をつかえるが、これでいいのかどうか確信できなかった。

これをこのようにやればいいと、はっきりしてくれたのが、合気道の技を剣の動きでやることである。合気道の技(形)のつくる体術を剣をつかった剣術でやるのである。どんな合気道の技も剣術でやるのである。一教でも二教、三教、四教でも入身投げや四方投げでも剣をつかって、体術でやるのである。合気道の技を剣の動きでやるのである。剣の理法で合気の技をつかえば、合気の技の形の意味が更に深く分かるし、体をどのようにつかうべきなのかが明らかになる。左右の手足が陰陽で正しく働かなければ、剣では切れないので、合気の手足も陰陽十字でしっかりとつかわなければならないことが分かる。例えば、剣を右手で持って右足を地に下して振り上げるが、右手と右足が陽で働くわけだが、それに合わせて陰にある左手と左足が陽に働くので、右手同様に左手も気で満たさなければならないのである。正面打ち一教で相手の打ってくる手を受ける手(陽)には力を込めるが、初心者などは、他方の手(陰)が死んでおり、結局は前に出した陽の手を更につかう事になり、陽→陰ではなく陽→陽でやることになる。これは法則違反になるから効かないことになるわけである。

合気道の体術を剣の動きや理法でできるようにしなければならないと書いたが、これは私の発見ではない。合気道の基本的な教えなのである。
その教えは、「(合気道は」故に或る一面では、剣の理法を体に現わしたものとまで言われている。・・・・合気道の体術ができれば、剣術もできねばならず、杖術も薙刀もそれに応じて、自在に使いこなすことができなくてはならない。」(合気道技法 P.241)である。

勿論、体術を剣の理法でやるのは容易ではない。合気道の技がある程度できるようになる上に、剣もある程度つかえなければならないからである。剣がつかえるようになるには、剣を振れるように、剣の体もつくらなければならない。
更に、合気道の技を剣でやるためには、剣を布斗麻邇御霊の動きでやらなければならないのである。只、剣を振ったり、切ったりしても駄目だという事である。布斗麻邇御霊で剣をつかえば、布斗麻邇御霊での合気道の徒手と同じような息がつかえ、気を生むことが出来る。これが合気道の体術が剣などの武器となるということになる。

過って大先生のところには多くの一流の剣道家も習いに来ていたが、剣道家はこれを求めて来たはずである。
しかし、大先生はわれわれ稽古人が道場で木刀や杖を振っているのを見つけられると、烈火の如く怒られ、「お前たちにはまだはやい」と云われていた。剣もつかえなければならないと教えておられるのに、剣を稽古すると叱られるわけだから面食らった。だから、みんな大先生のご不在を確認したり、又道場以外の場所で剣の素振りをしたりして剣や杖の稽古をしていた。

剣をつかえるようにしなければならないが、剣は振るなとの矛盾の教えの意味が今になってようやく分かってきた。
一つは、以前に分かっていた事であるが、合気道は攻撃をしないから、攻撃法は教えないということである。剣術は攻撃法であるから教えていけないし、道場でやってはいけないわけである。
二つ目は、布斗麻邇御霊で合気の体術が出来なければ剣もつかえないから、先ずは布斗麻邇御霊で体術を稽古し身に付けなさいということだと考える。
この意味で大先生は先述の「お前たちにはまだはやい」と云われたのだと思う。

参考文献 『合気道技法』植芝盛平監修 植芝吉祥丸著 光和堂