【第790回】 始め霊界を造らねば気は生まれぬ

気の研究を粛々と続けている。少しずつ解りかけてきているがまだまだである。特に、本当に気が出せるのか、己の気にどれほどの力があるのか等を知るのは難しい。これは頭ではなく体をつかい、技の中で試さなければならないが、コロナのお蔭で、ここ二か月ほど道場が閉まっていて相対稽古が出来ないからである。勿論、毎朝の禊ぎでは己の体と頭で試し、試行錯誤しながら研究しているが、やはり相手に試して身体の評価がないとはっきりと分からない。

いろいろと試行錯誤し、悩んでいると、或る事が思い出された。そしてこれが一つの究極の気の働きの姿ではないかと思ったのである。
それは、過って本部道場で教えておられた有川定輝先生の手と指の強靱さである。先生の腕の強さは誰もが認めていたし、分かり易かった。あの手で突かれたり打たれればどうなるかは明瞭であった。が、実は、それに加えて先生の指は鋼鉄のように強靱であったのである。その指で腹や胸を押されると、まるで鉄棒でつつかれた感じがし、とても人間の指で押された感覚でなかったのである。当時は、先生の指のこの強さは先生が修業された空手で鍛えられたのだろうと思っていたが、今になると、それもあるだろうが、気の力であったと思う。
もう一つ、元大関の天竜(和久田三郎)さんの話である。昭和13年の満州での武道演武会会場での事である。天竜さんは『植芝盛平と合気道 ?』の中で、「(天竜さんが)手をつかんだのですが、ハッと思いましたね。まるで鉄棒をつかんだような感じだったのです。」と云われているのである。やはり、手が鉄棒のようであったのである。
このお二人の手・指が、人間の肉・筋・骨ではなく無機質の金属になったということ、そしてその力・働きが人間を超えた、超人的なものになったということである。不思議である。

大先生の受けを一二度取らせて頂いたし、大先生の技づかいや手づかいも身近で拝見させて頂いたが、残念ながら手が鋼鉄のように感じたり、見る事はなかった。恐らく、手を鋼鉄のようにつかわれなかったか、またはつかわれていたのが見えなかったということであろう。何故ならば、先述のように、手は鋼鉄のように鍛えられておられ、つかわれておられたわけであるからである。

この鋼鉄のような手や指は、通常の一般的な修業では修得できない。大関のお相撲さんでも出来なかったわけだから、魄の稽古では駄目だという事である。尚、大先生は魄の最高のものは相撲であるとよく言われていたのである。
通常の一般的な修業は魄であるし、その最高の相撲でも難しいわけであるから、別の方法でやらなければならないことになる。

大先生は、魄の力、魄力ではなく、気の力でやらなければならないと云われている。魄の力は弱し、気は力の大王であると、気でやらねばならないと云われている。
これまで、気で息をつかい、十字から気を生み、気をつかう等書いたが、大先生の新たな教えに出会ったので、それで気を研究してみたいと思う。
それは、「始め霊界を造らねば気は生まれぬ。「スーウー」スは成長してウ声に移り、ウは成長して二つに分かる。・・・「ア」が生まれる。天からの気が下がって「アオウエイ」神の御柱、その霊の働きによって一霊四魂三元八力、全身に拡がる大きな動きは宇宙に気結び、御結びされる。アは空中の水霊にして無にして有なり。五十連の総名。・・・天之御中主はポチ(?)であります。大八洲を生み出した気に動きがすべての本をなす。それを八力、合気では○△□(かたまったもの)」(合気神髄p.132)である。

「始め霊界を造らねば気は生まれぬ」とあるように、己を霊界の次元に置かなければ気は生まれないのである。霊界には二つあると思う。一つは、霊体の霊の世界・次元で、体に対する心の世界である。見える体の顕界に対する見えない幽の世界・次元という意味である。もう一つは、一霊四魂三元八力の霊の世界・次元である。大神様の心ということだろう。
そして霊界を造り気を生むために、「スーウー」で大宇宙と結び、そして「ウ」は成長して二つに分かれ、天からの気が下がって「アオウエイ」の気が巡り、大八洲を生み出す。更に、一霊四魂三元八力が全身に拡がり、八力が働き、○△□にかたまるというのである。

つまり、この「スーウー」と「アオウエイ」の気の巡りから生み出される大八洲ならびに一霊四魂三元八力の八力の○△□こそが、両先生の手や指を鋼鉄のようにしたと考える。
鋼鉄の手・指をつくるためには、気を生まなければならないが、その気を生むためには霊界を造らなければならないわけである。